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 辻村深月『ふちなしのかがみ』
  ミステリ的な整合性と、
   ホラー的な想像の余地を残す感覚、
    その両方をいれてみたかった。






 巧みな仕掛けを用意して、読み手に深い余韻を残す。そんなミステリ作品で人気を集める注目の若手作家、辻村深月さん。はじめての独立した短編集となる『ふちなしのかがみ』は、ホラーテイストの作品集。震え上がるほどの恐怖を与えるものから、辻村作品らしい切なさを味わえるものまで、さまざまな顔を持つ5作品が揃う。辻村さんにとって、ホラーとはどんなジャンルなのだろう。ご本人にうかがった。





日常に入り込んでくる異質なもの


「短編の連載のお話をいただいた時、ホラーにしてみようと思ったんです。日本ホラー小説大賞の角川書店さんからのご依頼だという気負いもあって(笑)。一度、ミステリの枠を外して、ホラーの制約の中で書いてみたかった。実際やってみると、結局ミステリの制約も残っていたりして、それはもう自分の癖なんだなと気づきましたが」

 もともと、幼い頃から怖い話が好きだったという辻村さん。

「B級といわれる、おどろおどろしい表紙の怪奇コレクションを読んだりしていましたね。漫画なら楳図かずおさんや伊藤潤二さん。スティーブン・キングやホームズの『バスカヴィル家の犬』には得体の知れないものの怖さを感じました。今思うと、怪談としてのホラー、エンタメとしてのホラー、小説としてのホラーを分けて考えていたように思います」

 どのカテゴリにしろ、好みだったのは日常の光景がしっかりと描かれているもの。

「日常の描写にリアリティがあると、そこに少しおかしなものが紛れ込んできた時に、非日常感がすごく増して怖くなる。向こう側の世界をのぞいてしまった、という感覚が持てるんですよね。だから、都市伝説や怪談のようなものも大好きだったんでしょう」

 確かに収録される5編も、日常の中に異質なものが入り込んでくるものばかり。ゾクリとしたり、なぜかクスリと笑えたり、切なくなったり。さまざまな読後感を持つ作品の数々。意識したのは「ちょっとずつ、描く恐怖の種類をずらすこと」。では、具体的にはどのような恐怖を思い描いていったのだろう。



5つの異なる恐怖


 雑誌連載時、最初に書いたのが「ブランコをこぐ足」。校庭のブランコから落ちて死亡した少女について、周囲の子供たちが証言を重ねていく。その中で、彼女たちがキューピッド様に興じていたことも明らかになる。

「これは子供の無垢さと、集団というものの怖さを意識しました。その時に、題材にするなら集団催眠とも言われているコックリさんやキューピッド様だなと思って。学校は楽しいだけじゃない、無邪気でいればいいことばかりというわけでもない、ということを、小学生たちの視点を通じて書いてみました。主人公不在の物語にしてみたかった」

 単行本で最初に収録されている「踊り場の花子」は、学校の怪談に出てくる花子さんをモチーフにしたもの。

「これはホラー映画の怖さ、“見せる怖さ”に重きを置きました。学校が舞台ですが、自分の体験では、学校が怖いのは逢魔が刻。夜の学校も怖いだろうけれど、実際に見たことがないので想像でしかない。でも、みんなが帰った後の夕方、一人残って廊下を歩く時、異世界にきた感じがしたのははっきり覚えている。そうした、自分にとってのリアリティのある怖さを主題にしたかったんです」

 ここでは、幽霊ではなく、人間によるある犯行も明るみになっていく。

「学校の風景を描くだけでは漠然としてしまうので、ミステリの要素も入れました。ミステリ的な整合性と、ホラー的な想像の余地を残す感覚、その両方をいれてみたかった」

 幽霊の怖さ、人間の怖さ。その両方があいまって、実に悪夢的な世界が広がって恐ろしい!

「実は怪談好きが高じて、自分が書いているものが怖いかどうか、わからなくなっていて(笑)。このレベルならまだ大丈夫、と思ってしまうんです。ですから怖いと言っていただけると“私が恐怖なんていう 感情を人に与えることができたのですか!”と嬉しくなってしまいますね(笑)」

 次に収録された「おとうさん、したいがあるよ」はかなりの異色作。

「ここで書きたかったのは、不明瞭であること、どこかに片足を突っ込んでしまったという感覚の怖さかな」

 田舎の一軒家に、なぜか次々出てくる死体。淡々とその処理をしていく家族の様子が、不気味でもあるし、どこか滑稽でもある。

「これはいかようにも読んでほしいという感じです。デヴィッド・リンチの映画を観ていると、描きたいことを細切れにして順番をぐちゃぐちゃにしていますよね。つきつめて考えれば考えるほど主題は分解され、観客はその分解されたものを観て、意味のわからなさも含めてザワザワした気持ちを抱く。そういうのをやってみたいなって思って。自分と視点の近い女の子を主人公にして、誰もが見たことのある田舎の風景を選んで、鳥がずっと鳴いている感じ、目の前に大変なことが起きているのに元カレのことなんかを考えている感じ(笑)、途中からおばあちゃんたちが喋らなくなる感じ……。そうしたものから、何かを感じてもらえたら」

 感じ方は人それぞれ。死体の描写にしても、気持ち悪いと思う人もいれば、グロテスクすぎてリアルに思えない人もいるはず。

「本は、その人を映す鏡でもあると思う。だから、読み手がそれぞれ自由に何かを映してもらえたらと思います。ただ、こうしたものは初めてのアプローチだったのでわりと控えめにしたんですが、“もっと思い切ってもよかったのに”という声もいただいて。今後は、もっと破天荒なことができたらと思います(笑)」



境界線を越えるか越えないか


 表題作でもある「ふちなしのかがみ」は、自分の恋の行く末を知ろうと、鏡を使った占いをした女性が辿る運命を描く。

「これは狂気の部類の恐怖を描きました。女の子だったら誰でもおまじないや占いをしたことがあると思う。今考えるとあの頃なぜあんなに自分の未来を見たがっていたのかサッパリわかりませんが(笑)。それで占いの結果が好きな男の子と両思いにならないと出ると、人生の終わりのように感じたり。行き詰まり感を入り口にして書いていくことができるんじゃないかと考えました」

 未来を見てしまったことから、少しずつ壊れていく主人公。後半には、意外な仕掛けが用意されている。

「これは他の話よりも幻想的に見えて、実はミステリの仕掛けのひとつとしてホラーを使ったものなんです。ミステリでトリックを仕掛ける時は、読者の方にわかってほしい、という思いがありますが、これに関してはわかってもらわなくてもいい、という気持ちですね」

 この短編の題名が単行本のタイトルにもなっているが、

「“ふちなしのかがみ”というのは、向こう側がこちらに漏れだしてきてしまうイメージ。今回はどの作品も、罪を犯すのか、嘘をついてしまうのか、鏡の向こうをのぞいてしまうのか、といった、境界線を越えるか越えないか、という話なので、全体のタイトルにもちょうどいいなと思ったんです」

 最終話の「八月の天変地異」は、少年たちの友情を描いたファンタジー的作品。これは児童文学としても、高水準。

「ファンタジーの殻をかぶったホラーですね。主人公の男の子がある嘘をついて逃げ場がなくなって、その嘘が明るみに出ることを恐れている。嬉しかったのは“そうした嘘をつく気持ちが分かる”と、主人公を見守ってくださるような読者の方が多かったこと。ホラーの自由度に甘えて、ミステリ作品ではできない読後感を出せたこともよかったです」



あえて説明しない部分を残す


 作品の順番は、音楽アーティストがアルバムを作る感覚で決めていった。

「最初に全体の顔が見えるもの、つまり今回はホラーテイストの作品集なんだとはっきりわかるものを出して、真ん中には実験的なものを、そして最後にはこういう気持ちで聞き終わってほしいな、という余韻のあるものにしようと思っていたんです」

 読み心地はそれぞれだが、これら5編に共通しているのは、謎や不思議な現象の真相が明確に説明されるのではない分、読者が想像をめぐらせる自由があること。

「ミステリでは説明が必要でも、ホラーだとそこまで書いてほしくなかったということがある。小説の中に得体の知れないものが出てきた時、読者は自分にとって一番怖いものを想像すると思う。それが実はこういう真相でした、ときっちりわかってしまうと肩透かしをくらうことがあるんです。自分が読者である時にそういう風に感じていたことを思い出して、書かないからこそ怖い、というものをやろうと思いました。説明しないからこそ伝わるメッセージってあるはずだから」

 それは、これまでに執筆してきた中で、読者の反応を見て実感したことでもある。

「3作目くらいからちょっとずつ、前後を説明せずにわかる人だけがわかる、という書き方を入れていったんです。そうしたら意外にも結構な人がそれを受け止めてくださって。そうした読者の反応から私自身も教えてもらったし、安心して読者を信頼して、預けられるようにもなりましたね」



“青春”の痛みに対するこだわり


 綿密な伏線を張り巡らせる作風ながら、長編の執筆の際に細かなプロットは立てていないというから驚きだ。では短編の場合は?

「短編も“だいたいこんな感じ”とだけ決めて書き始めています。こんなイベントを起こそうとか、最後はこうしよう、ということをなんとなく決めておくだけですね」

 本作は、辻村さんにとってはじめての、他作品とのリンクをもたない独立した短編集。

「短編は水泳にたとえるとプールで泳ぐ感じですね。長編の場合は海の中を、岸がどちらにあるのかわからないまま泳いでいる感じ。溺れたら死んでしまう(笑)。でも短編は、溺れることはないだろう、と楽観的に取り組めます。短いスパンの間に、その時々の課題が達成できるので楽しいですね」

 そうして書きあげられた5編は、ホラーでありながら、どれも辻村さんらしさがにじみでている。それは青春の閉塞感であったり、心の動きの描写の巧みさであったりする。青春ミステリの書き手と謳われることが多いだけに、本書も青春ホラーと名づけたくなる。

「青春って言葉はもういろんなところで使われていて、ともするとチープな印象。だけど青春という言葉があるから共感を寄せてくれる人もいるので、自分は胸を張って“青春”という冠を誇っていいかなと思って。青臭い人間のままでいようと思います(笑)」

 とはいえ、昨年末刊行の『太陽の坐る場所』では、30歳手前の男女たちの焦燥感や、コンプレックスをえぐり出し、またひとつ作品世界を広げた。

「青春というのは誰もが共感できる多感な時期なので、あえて選んできましたが、自分がもうすぐ30歳を迎えるにあたって、30歳までの年代のことも咀嚼して説明できる準備ができてきたんです。痛々しいくらいの思いを抱く時期を過ぎたという自覚はあるけれど、今も自分はまだまだ子供だなと思うし、・大人・って人たちはいないんだと感じつつある。今、大人の女性を“女子”というのが流行っていますよね。30代だけどまだ迷っている、それを思春期と呼ぶことも許されてきているのかなとも思う。10代の頃のことって自意識が強かったこともあって鮮烈に覚えているけれど、30代以降になってくると、抑圧ポイントも人によって違ってくるし、年齢だけでくくれない痛みが出てくる。それを自分が、その年代のこととしてずっと覚えていられるか、自信がないんです。ですからこれからは、その年代ごとに感じることを忘れないうちに書き残しておきたいと思う」

 9月に講談社から刊行される書き下ろしは、30歳を過ぎたばかりの人たちの話だという。

「久しぶりに人が死にます(笑)。ただ、私は人が死なないミステリを書く、と言われたりしているので、小道具のように殺人を描くのでなく、丁寧に人を殺してみようと思いました(笑)。あとは田舎と都会の様子、30歳を過ぎたばかりの世代が感じる圧力も書きたかった。タイトルは『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』です。読み始めるまでは意味がわからないけれど、最後まで読んだら絶対にこのタイトルだ、と思えるタイトルにしたつもりです」

 さて、この題名が何を意味しているのか。9月の刊行が楽しみだ。


(文・取材/瀧井朝世)



辻村深月(つじむら・みづき)
1980年2月29日生まれ。千葉大学教育学部卒業。2004年『冷たい校舎の時は止まる』で、第31回メフィスト賞を受賞してデビュー。他の著作に『子どもたちは夜と遊ぶ』『凍りのくじら』『ぼくのメジャースプーン』『スロウハイツの神様』『名前探しの放課後』『太陽の坐る場所』がある。