一冊の教務日誌との出合い
1999年の新年度、国際ローゼン学園は二年菊組に一人の留学生を迎えた。カナダのケベック州からやってきたナタリー・サンバートンである。仏語圏からやってくるのだから英語が苦手だろうと教師たちは推測していたのだが、実はナタリーはブラジル系の移民で、英語はもちろんフランス語も苦手。母国語はポルトガル語だという。担任であり日本語指導を担当する藤村をはじめとする教師たちは対応に追われる。そんな彼らの一学期の様子が日付入り、三人称の文体で事細かに綴られていく『私のいない高校』。担任の藤村の視点と重なる部分はあるものの、基本的に教室全体を俯瞰するような視点が保たれる。オビの惹句にもあるように本書は「主人公のいない」小説といえるだろう。
これまでにも家庭や東京の町など、なじみのある風景を自在に移動する視点から描いてきた青木さん。
「学校を書きたいという気持ちは当初からありました。自分も小学校から高校までぎっちりとスケジューリングされた空間に身を置いていた。あの不可解な感じはいったいなんだったんだろうと思うところがあって、いつか“教室”を書いてみたいなと思っていました」
参考になるものはないかと思い、書店の棚をかなりリサーチしたという。
「学校や教育関係の本はたくさんあるんですけれど、面白い本が全然ないんです。高校の先生が書いた本はあるんですけれど、ヤンキー先生とか、そういうものばかりで。それは僕には参考にならなかったんです」
ある日、新古書店で1冊の本を見つける。本書の巻末に参考文献として挙げられている大原敏行著『アンネの日記 海外留学生受け入れ日誌』(東京新聞出版局/1999年)である。教師の著者が、アンネというカナダからの女子留学生を受け入れて過ごした1年間のクラスの様子を丁寧に記した日誌で、2段組で濃密な内容。ごく少数しか刷られていないと思われるこの本に青木さんが巡り合えたのは、運命的とすら言いたくなる。
「最初はなんだろうと思って手に取ったんです。読んでみるとものすごくエネルギーをかけて書いているんだろうと思わせる本で。時間割から些細な出来事まで、その日にあった事実を積み重ねていくように書かれているんです。これを面白がって読めるのは僕ぐらいしかいないんじゃないかと思って編集者二人に読んでもらったら、やっぱり“面白がれない”と言われて(笑)。でも面白くないのはなんでだろう、って思うんです。この本には世間には流通していない、当事者にしか知りえない世界が書かれてある。僕が求めていた“学校自体”があったんです。それで、この雰囲気を借りて小説を書こうと思いました」
教室という空間における時間の経過を書く
事前に通読し、執筆時にはパソコンの横にこの本を置いた。書こうと思っている日の記述を読み返したり巻末に載っている事柄の索引を見たりしながら、惹かれた出来事を小説に取り入れていった。
「小説家としては一からエピソードを作らなければいけないのかもしれませんが、絶対に元の本の面白さには勝てないと思って、この中のエピソードを膨らませる形で書きました。これはちょっと自分では思いつかないぞ、と、敗北したところから始まったんです。それに1年くらいずっとこの本を読んでいたので、もう離れられなくなっていて、どうにか小説として再現したいという気持ちがありました。とにかく学校ぽい≠烽フを詰め込んでいきました。元の本は1年間のことが書かれてあるけれど、僕が書いたのは1学期まで。本当は1年間を書きたかったのですけれど、1学期を綿密に書きすぎてしまいました(笑)」
確かに『アンネの日記』は留学生に対応した教務や彼女の成長を記すというよりも、クラス全体の様子やほかの生徒のなんでもない行動まで丁寧に記されている。そこにはクラスの日常そのものがあるという印象。青木さんの心をくすぐるのもよく分かる。
「一人の生徒だけを見ているのではなく、全体を見渡しているところがいかにも先生的な視点だなと思いました。自分が生徒だった頃は考えもしなかった先生の業務というものが書かれているんです。ただ、先生の一人称で書くつもりはなく、先生を含めた教室の風景を書くつもりでした。小説に書き換えるというのは、一人称から三人称に書き換える作業だったといえますね。一人称小説はもとからあまり書かないので、僕が小説だと思っている形に加工したといえます。空間を描写する時に、視点がずれる感じ、揺らぐ感じは出そうと考えていました」
固定されないカメラが自在に動いて光景を写し取っていくような描写は、青木さんの作品の魅力でもある。
「空間を浮遊している感じというのは小説を書いている時にも意識はしていますね。自分がいちばん書きたいのは空間≠ナはないかなと思っています。一人の人間の実感や登場人物同士の関係性よりも、その人物がいる空間を写し取りたいという欲望がある。それと、今回は日記形式で書いてありますが、日付を入れることで時間の経過を表現できるんじゃないかと思っていました」
とある空間における時間経過を記すなか、人物の内面はほとんど描写されず、“人”は“人々”となって遠景に溶け込んでいく。
「小説を書く時に人間味、情緒みたいなものを少し薄めたいという気持ちがありました。でも今回は、もうちょっと人間が出てくる小説にしようと思ったんです。それがいちばん表れているのが、人名を出したこと。名前をたくさん出せば集団を描いたことになるという思惑によって、生徒たちの名前をいろいろ考えて書き込みました。名前をつけるだけで不思議と人らしくなるということは、今回書いてみてはじめて気づいたことです」
1年下の学年から共学になったという設定なので、クラスの生徒は女子ばかり。その女子生徒たちの名前がフルネームでやたらと出てくる。確かにたった1回名前が出てくるだけで、クラスの一員として確かにその子が存在している印象が刻まれるから面白い。
文献を読んで書くというスタイル
さて、本書を『アンネ〜』と読み比べてみると、設定が微妙に違うことに気付く。例えば、青木さんの小説のナタリーはブラジルからカナダへ移民しているが、実際のアンネはブラジルからの留学生。
「あまりに同じ設定はどうなのだろう、と思って変えてみました。いろんなところに移動して旅をしてきた留学生というイメージもいいなと思って。時代設定も1年ずらしてあります。ただ、ひとつ設定をいじるといろんなことを書き換えなくてはいけなくて大変なところもありました」
その一方で、エピソードを膨らませたという通り、かなり類似している部分も多い。
「1学期のいちばん大きなイベントは修学旅行。広島や長崎に行くんですが、たどったルートもまるっきり参考文献と一緒にしました。行き先くらい自分で作ろうかと思ったんですが、オリジナルで修学旅行の日程を組もうとするとスケジューリングの作業がすごく難しいんです」
ほかに、留学生の制服を卒業生からもらいうける様子や、教室でものが紛失するといった事件や、試験の際の解答用紙の配布ミス、あるいはナタリーのちょっとした言動が『アンネ〜』と重なる。確かに、思い出にも残らないような些細な、しかし学校生活でならありそうな出来事が積み重ねられていく。
もともと著者がイメージしていた学園ものとは、留学生の存在の有無が大きな違いとなったわけだが、
「もし元の本がなかったら、これよりもっとストーリー展開や筋のない話になっていた可能性が高いですね(笑)。留学生が普通の教室にいるという状態は、自分では経験しなかったこと。そこに真新しさがあって面白かった。交換留学というもの、文化交流というものの不可解さも感じました。1年間かけて手取り足取りでレッスンをしていくなんて、教えるという作業は本当に大変なんだな、という感動がありました」
留学生をケアしながらも、全体も見渡す教師。修学旅行先での彼の言動が非常に気にいったそうで、巻頭に引用されている。
「いかにも学校的、先生的だなっていう。留学生の気持ちも分かるけれど、生徒はお前だけじゃないんだ、集団のことを考え行動しないといけないんだぞっていうところが(笑)」
本書は参考文献よりも1年後にずらし、1999年が舞台となっている。青木さんの著作『このあいだ東京でね』にも、1999年の新聞記事を読みながら書き進めた「ワンス・アポン・ア・タイム」という短編がある。今回は偶然の結果とはいえ、この年に何か思い入れはあるのだろうか。
「この時代を書きたかったということはありますね。十数年たって熟成されているように思いますし。世代の問題もあるかもしれません。ちょうどここに出てくる生徒たちと同じ頃、僕も高校生だったんです。僕は多感ではなかったんですけれど、思春期らしいこともなかったんですけれど(笑)、感受性はまあまあ強かったくらいの頃。そこを十数年後から振り返ってみると面白いんです」
面白いというのは90年代後半という時代に対してなのか、それとも十年の間隔というものに対してなのか。
「両方ですね。ただ、今回も小道具に当時を思い出させるものは出てきますが、“時代”を書いたつもりはないんです。あくまでも学校の敷地内と、修学旅行先のことだけを書いていますから」
ただ、どこか懐かしい気持ちになるのは確か。読み進めていくと、こんなふうに自分の高校時代が書かれた日誌を読みたい気分になってくる。自分がいたあの空間は、どんなふうに描写され、どんなふうに読めるのだろうと、考えるのも楽しい。
「僕もこれを書いていて、自分の高校時代に対して郷愁みたいなものを感じました。自分の高校時代の思い出は書いていないのに。『私のいない高校』というタイトルにはそういうニュアンスもあるんです。自分のいない、関わることのできない、まったく別の高校の記録を読んでいるような気持ちがありました。解釈の余地を残したいので、タイトルの意味はこれです、と言い切りたくはないんですが」
自分のいない空間を遠くから“眺めながら”書く、というのが青木さんの執筆のひとつのスタイルだといえそうだ。また、どこかに取材に出かけるというよりも、どちらかといえば文献を“眺める”のが好きだという。
「文献がどうしてあるのかという興味がまず先に来るのかもしれません。誰かが何かを記しておこうとしたものが好きなのかも。それを書き直すことが面白い。また何か出合いがあれば、こういうスタイルで書いてみたいなと思いますね」
次に書いてみたい空間は?
「会社でしょうか。家族や学校を書いてきたので、会社小説には興味がありますね。大きな会社ではなく、中規模のメーカーなどに惹かれます。といっても、何も準備はしていませんけれど」
青木さんの文体で、壁に飾られた社訓や朝礼の様子が描かれるのは楽しいかも……と、すでに勝手に想像が膨らんでしまう。
(文・取材/瀧井朝世)
青木淳悟(あおき・じゅんご)
1979年埼玉県出身。早稲田大学卒。在学中の2003年「四十日と四十夜のメルヘン」で第35回新潮新人賞を受賞しデビュー。05年「クレーターのほとりで」が第18回三島由紀夫賞候補。同年に前記2作を収めた作品集『四十日と四十夜のメルヘン』で第27回野間文芸新人賞受賞。その他の著書に『いい子は家で』『このあいだ東京でね』がある。
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