きっかけは一冊の本
私大の理学部を卒業し小さな理科学実験ガラス機器の専門メーカー、片山製作所に就職した瀬野梢恵、二十四歳。やる気なく日々を過ごしていた彼女はある日、社長の片山に長野出張を命じられる。バイオエタノール用の安いコメを作付けしてくれる農家を探してこい、というのだ。
その時に片山社長が手にしていたのは石川英輔の『大江戸神仙伝』。現代人が江戸時代にタイムスリップしてしまうという1979年刊行の作品だが、実は誉田さんもデビュー前にこの本を読んでいる。
「もとを辿ればきっかけはこの『大江戸神仙伝』なんです。江戸の生活文化が非常に丁寧に描写されていて、菜種油を燃料として使っていることも書かれてあって。植物などを材料にしたバイオエタノールというものを知ったのはその後なんですが、日本人もエネルギーを再生していくシステムを持ちうるんだなと感じたんです。そういうことを作品に書けたらいいなと思っていました」
つまり本書の着想はかなり以前だったというわけだ。
「何年か前から具体的に考え始めて、最初は開発秘話を描いた企業ものをイメージしていました。でもどうもしっくりこない。作中にもありますがバイオエタノールって、コストの面で合わないんです。なのに開発に成功してペイするものができる話にしてもリアリティがない。燃料も日本で作るならお米かなと思ったんですが、するとなおさらコストがかかる。ただ、コメとなると農家だろうということで舞台が決まっていきました。最初、編集者に構想を説明する時に”誉田版『北の国から』だと思ってくれ”と言いました(笑)」
その後、内容が固まらないうちに他の連載に取りかかったりしたこともあり、誉田版『北の国から』は先送りになっていた。
「そういう状態の時に震災が起きたんです。食料の問題にかかわってくるし、エネルギーの問題も浮かんできたし、ああ、今書かないと駄目なんじゃないかと感じました。漠然と”書きたいな”と思っていたのが”書かなければならない”に変わったんです」
主人公を東京のOLにしたのは、
「『大江戸神仙伝』は、現代人が江戸にいくからこそ、いろんなことがいちいち発見になるという面白さがある。それと同じく、農業知識ゼロの人間が農家を手伝うことにすれば、新鮮な驚きが書けると思いました」
長野出張に出かけた梢恵は、数軒の農家に冷たくあしらわれる。憂鬱な気持ちで足をむけたのは農業法人『あぐもぐ』。代表の茂樹は休耕田をなくすために奮闘している男。一見怖そうな男だが、彼は農業知識ゼロの梢恵を見かねてしばらくの間コメ作りを手伝うように提案。片山社長も面白がってその話にのる。自分は東京の片山製作所にとって不要な人材なのかと落胆しつつ、梢恵の農業修業が始まる。ぶっきらぼうな茂樹、理解あふれる妻の君江、明るい高校生の娘朝子のほか、茂樹の右腕の行人、脱サラしてきた知郎や茂樹の甥っこ健介に囲まれての日々だ。
著者自身も農業を体験
誉田さんも取材でモデルとなった竹内農園のある長野県木島平村や、バイオエタノール精製装置の開発をしている桐山製作所に足を運んだという。そこで見聞きしたことがすべて、小説の細部にまで溶け込んでいる。
「田んぼに関してはひととおり触らせてもらいました。耕運機で土を掘り返したり、土と水とを混ぜてこねるシロカキをやったり。せっかくだからと手作業の田植えもやらせてもらいました」
取材はなるほど、と思うことの連続。
「水田はプール状になっていますが、周囲をコンクリートで囲っているわけじゃない。まず畦塗りという、土で縁を作る作業から始めると聞いて、そりゃそうだな、と。田植えは今は機械でやっているんですが、そのシステムも見ているとものすごく合理的にできている。いろんな工夫が凝らされ技術が使われて、ようやく僕たちはご飯を食べられるんだな、としみじみ思いました」
『あぐもぐ』では野菜も作っているが、
「何月に何を植えて何月に収穫するのか、そのスケジュールを取材しても、例えばオクラなんかはずっと収穫できる、というんです。ただ、手が届かないところまで伸びたらやめる、って(笑)。採れたてを素揚げにして塩をふっただけで、全然違う食べ物のようになって美味しかったですね。玄関に野菜がたくさんあって、何かと思ったら“形が悪くて売れないからうちで食べる”って。ただ、みなさんタフだなと思ったのは、夜中まで作業をして朝明るくなる前に起きて畑をまわってから朝食をとること。夏は昼休みを長めにとるなど工夫はされているようなんですが」
そう、作業は大変な面だってある。また、土壌改良をするといって土の下に産業廃棄物を混ぜ込むという詐欺を働く業者や、有機農法をめぐるさまざまな考え方や苦労など、実際に見聞きした問題、また食料自給率など現実的な話も盛り込まれている。しかし深刻なトーンにはならない。登場人物たちのやりとりや梢恵のぼやきにはクスリとさせられるし、読みながらも太陽のまぶしさや土の匂い、野菜の瑞々しさが伝わってくる。ユーモアたっぷりのエンタメにしたのには動機がある。
「リーマンショックの後、当時の農水大臣だった石破さんが“こんなご時世だから農村の受け入れ態勢を整備しないと”といった発言をしたんです。それを踏まえてニュース番組がハローワークでインタビューをしたら、職を探しに来ている人たちが”農村はちょっと……。これまでのスキルが活かせないので”って言っている。そのスキルが活かせないからハローワークに来ているのに、そんなに農業が嫌なんだろうかと意外だったんです。僕は以前、作家の仕事がうまくいかなかったら農業をやろうか、と考えていましたから」
だから農業を明るく書きたかった、という。
「例えば携帯電話のテクノロジーがものすごく進んだといっても、僕たちの生活が劇的に変わることはない。携帯を通してネットで買い物ができたとしても、それを運ぶのは人の手に頼っている。配達する人たちが必要なんです。つまり実業が大切。だったらテクノロジーばかりでなく、国内で食べるものを作るといった、もっとも基本的な実業に目を向けてもいいんじゃないかと思う」
農業、そしてバイオの未来
本書には3月11日のあの震災のことも書かれている。そこで梢恵の気持ちも大きく変化することに。
「取材した竹内農園の人たちも、震災の後、自分たちが農作物をしっかり作るしかない、という空気がありました」
コメ作りができなくなった福島の親戚を君江が励ます場面があるが、その言葉にはっとさせられる。
『他の誰が飢えたって、あたしらが飢えることはない。でしょう? 元気出して、一緒にやっていこう』
飢えることはない。何が起こるか分からない世の中で、これほど心強い言葉はない。
「黒澤映画の『七人の侍』は、勝ったのは百姓たちだった、という結末になりますが、そうした逞しさを感じるんです。本を書いても、出版社や印刷所、流通と書店の方たちが関わってくださってはじめて、僕はコーヒー一杯が飲める。でも彼らは仕事をしていれば、大地から直接食料を得ることができる。絶対に飢えない。どんな企業でもひとつのビジネスラインしか持っていなかったら、それが駄目になった時には立ち直るのが難しい。農家の場合、このシーズンのこの畑が駄目でも次のシーズンのあの畑にそれを植えるから、となる。ひとつのことに失敗してもへこたれない」
実際に、誉田さんは農業には今さまざまな可能性があると感じているようだ。
「今は自分でネットで販路を拡大している農家も多いし、日本の野菜は外国に高く売れるので輸出している人もいる。かつては農協のシステムも必要だったんでしょうけれど、それに頼らない農家も増えてきた。特殊なビジネスじゃないんです。本にも書きましたが、食料自給率が低いといったって、輸入をやめれば100%になるだけの話だし、就農人口が減ったといったって、それはトラクターやコンバインの導入によって人手がかからなくなったから。意欲のある人が、いろんなビジネスモデルを考えて、いろんなことをやっていけばいいと思う」
バイオエタノールに関しては、
「取材した長野県信濃町の研究施設で実際にバイオ100%の車にも乗せてもらいました。コメでなくても野菜くずなどでも、糖化できるものならなんでも材料になるそうです。ただ、アルコールからバイオエタノールを精製する小型装置は実際にあるんですが、コメからアルコールを造ってそれをバイオエタノールにするという作業を一気にできる小型装置は実現していません。商業規模でないとアルコールの製造は法律にひっかかるし、ビジネスとしてペイしないなどの問題点もあるので、エネルギーの地産地消はまだ難しい。ブラジルのようにガソリンの代わりにバイオエタノールを流通させられるかというと、日本では石油会社がどう対応するかなどの問題もある。誰かが音頭をとって進めていかないといけないでしょうね」
自分の仕事と向き合う主人公
それでも、本書はバイオ燃料への可能性を信じたくなる展開になっている。そして主人公の梢恵は農業という仕事を前向きにとらえていく。単に農業礼賛という結論のわけではなく、彼女自身が“仕事”というものに真剣に向き合うようになるのだ。
「梢恵は最初、片山製作所から不要とされたことを気に病んでいます。そりゃ人は“この仕事にはお前が必要だ”と言われたいものだけど、そんな言葉はみんな自分の都合で言っているだけ。本当にその人が必要なことってあんまりない。例えば、僕が小説を書くのをやめたって、読者は他の人の小説を読むだけですよね。それでも僕が小説を書いているのは、僕が書きたいからなんです。仕事なら嫌なこともあるでしょう。でも自分の仕事に喜びを見出していくことが大事。僕は市場経済って基本的には感謝の等価交換だと思っているんです。こういうことをして感謝されて、それがまた明日の仕事につながるというシンプルな考え方。そういうなかで、自分の仕事に自分で魅力を見つけられるといいですよね」
書きたいから書く。その姿勢で、この極上のエンターテインメント小説を生み出した誉田さん。
「楽しく幸せに書ききることができてよかった。取材で知ったことがたくさんあったので、むしろ創作の部分は少なかったようにも思いますね。もらいものでできたドライフルーツがぎっしり入って、生地の部分はつなぎでしかないケーキみたい(笑)。こんなに長年考えていた題材は他にはないので、かかった年月についてだけいえば、やはりこれは特別な作品になりましたね」
では、今後の大きな計画はというと、
「2015年に特別なことをやろうと思っています。ちょっとお祭りをしようかな、と」
内容に関してはまだ秘密だそうだ。
(文・取材/瀧井朝世)
| 誉田哲也(ほんだ・てつや)
1969年東京都生まれ。2003年「アクセス」で、第4回ホラーサスペンス大賞特別賞を受賞。主な著書に、映画化も決定している『ストロベリーナイト』などの〈姫川玲子〉シリーズ、〈ジウ〉シリーズ(全3巻)、『武士道シックスティーン』などの〈武士道〉シリーズ、『国境事変』『ヒトリシズカ』『歌舞伎町セブン』『レイジ』『ドルチェ』『あなたの本』『あなたが愛した記憶』などがある
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