小川 哲さん『オルロージュ』*PickUPインタビュー*

小川 哲さん『オルロージュ』*PickUPインタビュー*
 小説はもちろん、最近はノンフィクション『言語化するための小説思考』や『屁理屈と哲学』も話題の小川哲さん。新作長篇『オルロージュ』で描かれるのは、あるスタートアップの物語。急成長を目指し起業する人々と、そこに集まる人々の姿に彼が関心をもったきっかけとは。
取材・文=瀧井朝世 撮影=浅野剛

「自発的にあのポーズをとったわけではないんです。自発的と思われることが一番心外です。マジで写真の下に〝著者は嫌がってます〟って書いてほしかった」

 と、苦笑する小川哲さん。これは新作長編『オルロージュ』のバウンドプルーフの表紙のことだ。バウンドプルーフとは書籍の発売前に、出版社が書店員や書評関係者に配布する仮綴じ本のことで、今回その表紙には小川さん自身が黒いタートルネックを着て顎に手をそえた写真が掲載されていた。SNSでも表紙が拡散され、「スティーブ・ジョブズの真似か」「ビジネス本の表紙かと思った」と話題になった(検索すればその画像は見られるはず)。

小川哲さん

 編集部の指示だというが、なぜそのポーズとなったのか。実はこれ、スティーブ・ジョブズの模倣というより、ジョブズに憧れた一人の女性の模倣である。

「エリザベス・ホームズはジョブズに憧れて、ずっと黒のタートルネックを着てジョブズの真似をしていたんです。憧れすぎてジョブズと同じようにスタンフォード大学中退までしてるという」

 エリザベス・ホームズは2000年代、血液検査を迅速かつ安価にできる医療ベンチャー「セラノス」を立ち上げた人物だ。その企業の顚末を知った時、小川さんは〝小説〟を感じたという。

「会社や起業に興味があったというよりも、僕の好きな『グレート・ギャツビー』味を感じたというか。小説家として、人間の空虚な部分に対する興味関心が先にありました。人間の欲望のいい面と悪い面がよく出ているのがビジネスとかなのかな、という気もしていましたし」

 そういえば小川さんの短篇集『君が手にするはずだった黄金について』では人々から投資を募るトレーダーの青年が登場し、ノンフィクション『言語化するための小説思考』でもベンチャー企業と小説家は同じだと書かれており、こうした構造に強く関心を抱いていることがうかがえる。

「『言語化するための小説思考』を出した時にはすでに『オルロージュ』を書いていたのですが、発表前だったのでああいう書き方になりました。実際ベンチャー企業って小説と似ているところがすごくあると思うし、だからこそ今回これが書けた、というのはあるかもしれないですね」

 もちろん『オルロージュ』はエリザベス・ホームズをモデルとした小説ではない。複数の視点をテンポよく切り替えて話を進めていく群像劇であるところは、直木賞受賞作『地図と拳』と同じだ。

「小説を通して会社や資本主義というものを考えていきたいというのが根底にありましたが、それはひとつの視点からでは見えてこない。創業者、投資家、従業員や取引先の人、その会社の商品を買う人といった、いろんな視点が合わさらないと。だからいろんな立場の人から見てみよう、というのは最初からありました」

 最初の語り手となるのは、倉敷秀斗という26歳の青年。大学院で主にカドゥケウスという光合成をする細菌の特性について調べている研究者だ。彼はある日、卒業以来会っていなかった中学時代の同級生、桐田奈南ななみから連絡をもらい再会を果たす。かつて「世界一の金持ちになる」と豪語していた彼女は現在、独立系のベンチャー・キャピタルにいるという。彼女が持ちかけたのは、倉敷が研究を活かした会社を創業し、自分の勤める会社がそこに出資するという計画だ。突然のことに面食らいつつ、倉敷はアイデアを練っていく。

「大きい会社をすごく小さなところから始める話にしたくて、中学の同級生みたいな特殊な繫がりからスタートさせたんだと思います。倉敷はちょっと職人っぽい感じの人ですね。それは桐田と対比するためでもあるし、僕自身が起業や会社や出資のことが全然わかっていなかったので、僕や僕と同じように詳しくない読者のシャドーを倉敷にして、一緒に起業について学んでいく存在にしたかったためでもあります」

小川哲さん

 やがて倉敷はカドゥケウスを混和材に使用した、光合成するコンクリートの開発を提案、桐田はそこに飛びつく。倉敷が立ち上げたスタートアップの名前は「オルロージュ」。二人が再会した夜に行ったバーの店名で、フランス語で「時計」という意味だ。

「どれだけのお金持ちになっても時間だけは増やせない。だから世界一の金持ちになろうとする人にとって、一番の敵は時間であり、それを象徴する言葉にしたいなと思いました」

 光合成により二酸化炭素を削減するコンクリートは「エンライトメント」と名付けられる。これはもちろん小川さんの創作だが、読者も地球温暖化に歯止めをかけるためにぜひ実現してほしいと思わずにはいられない。

「話の特性上いわゆるディープテックといわれる、科学技術を用いた企業にするつもりでした。読者にとっても賭けてみたくなるような新技術、新商品でありながら、本当の専門家じゃないと仕組みが理解できないものとして考えたところがあります」

 倉敷はスタートアップのプレゼンイベントにも参加するが、もともと内向的な彼はとにかく話下手でプレゼンは惨敗。結局、桐田がオルロージュのCEOに着任し、投資家や投資機関へ積極的にアプローチしていくこととなる。彼女が手腕を発揮する様が複数の視点から描かれていくのだが、その人心掌握術は尋常ではない。特に序盤の、飛行機内で彼女が無敗伝説を誇る投資家と出会う場面は強烈だ。

「あそこは自分でもよく書けたなって思って(笑)。こう書けばこういうことが描ける、という経験からできたエピソードは結構ありますが、あの機内のエピソードはどういう描き方をしたら一番うまく伝わるかを一から考えて作り出したものなので。自分でもこんな人がいたら〝すごい〟と思うと同時に〝怖っ〟って思うような場面が書けた気がします」

 もちろんそんな桐田もさまざまな困難に直面する。しかし本書に桐田の一人称のパートはない。

「僕の中でカリスマって、一人称がないことだというのがあって。周囲の人間が見たいもの、期待しているものを反射して映す存在がカリスマであるのに、一人称を書くと必ず誰かの期待とは合わない部分が出てきてカリスマ性が剝がれてしまう。実は連載時は最後にちょっとだけ桐田の視点があったんですが、書籍化の際に削りました。それで話が劇的に変わったわけではないです。ただ単行本化にあたって、桐田には最後までみんなの期待を背負う空洞あるいは鏡として存在し続けてもらうという結論を出しました」

 小川さんの中では、桐田の心情や感情についてイメージするものがあったのだろうか。

「いや、僕もみんなと一緒で、この桐田というカリスマは何を考えているんだと思いながら書いていました。いってみれば、〝資本主義成瀬〟みたいな」

 確かに宮島未奈さんの『成瀬は天下を取りにいく』からはじまる成瀬シリーズも、独自の道をマイペースに行く成瀬は中心人物でありながらも彼女の一人称のパートはなかった。ただ、桐田のビジネスに対する考えが浮かび上がる言葉もある。たとえば、ある場面で、「起業するということは、ある意味ではみんなの奴隷になるってことなの」と彼女は語る。

「僕は会社勤めをしたことがないから、起業家とか起業を理解する手掛かりの一歩目は全部小説になる。たとえば、小説を書くことは一見すごく自由で、好きなことを好きなように書けるように思えるけれど、仕事として維持していくためには、読者だったり、編集者だったり、書店員だったり、いろんな人の期待に応えないといけない部分がある。それっていろんな利害関係者の奴隷でもあるというか。求められるものを市場に提供し続けないと居場所がなくなるかもしれない。小説を書く仕事は本当に自由と言えるのだろうか、などと考えたことが、その台詞に詰まっているかもしれない」

小川哲さん

 まだ実現するかもわからない商品やアイデアに投資するスタートアップという企業形態についても、小説と同じだと小川さん。

「編集者が小説家に依頼する時も、すでに書かれた小説の買い取りを交渉するのではなく、まだ書かれていない小説について打ち合わせをして、時間とお金をかけて投資している。つまり出資をする人が編集者で、出資を受ける側が小説家という側面がある。だからスタートアップの形は僕にはむしろすごくしっくりきました。スタートアップで商品が実現しないケースがあるように、小説家も連載しても本にならなかったり、連載の途中で駄目になったり。原稿の締め切りに間に合わなかったりしますし」

 オルロージュに出資する投資家や投資機関は、科学の知識を持ってエンライトメントの仕組みを完全に理解しているわけではない。それでも彼らは賭けに出る。その目的は金儲けだけでなく、商品を実現化させて未来を変えるというストーリーや、桐田というカリスマに対する期待もあるだろう。

「AIへの投資が過熱していたのだって、そういう側面があったと思うんですね。AIに投資している人が、現場のAIのことを完全に理解しているとは限らない。やっぱりそれによって社会が大きく変わるという期待は大きかったと思います」

 そう考えると本作は提示された魅力的なフィクションに引き寄せられる人たちの話、ともいえる。そしてそれがビジネス、それが資本主義なのだ、とも。

「そもそもお金というのがフィクションというか。それ自体では価値があるものじゃないのに、何かと交換する機能があるから価値がある、というフィクションが信じられている。それを無限に増やしていこうとすることで、会社という存在そのものがある時期からフィクション化していく。いろんな人の期待や希望を吸収しながら大きくなっていくのが会社というものの興味深いところだし、すごく小説的でもあるな、というのは書きながらずっと感じていました」

 オルロージュは社員を増やし規模を拡大していく。経済誌の記者や社内のPR担当、新入社員などさまざまな視点でその成長過程が描かれていく。が、次第に社内には不穏な空気が漂い始める。技術の漏洩を防ぐために言論統制めいたことが行われ、会社を辞める社員に対してはさまざまな疑いがもたれ……。その対処方法は時に強引で弾圧的だ。

「会社って大きくなればなるほど、どんどん見えなくなっていくなと思って。創業者からすると末端の社員が何をしているのか見えなくなっていくし、平の社員からすると上層部が何を考えているのか見えなくなっていく。どんどん見通しが悪くなっていくなかで、どうやって会社を存続させていくかも会社のテーマでもある気がします。その〝見えなさ〟のなかの不穏さや怖さみたいなものは、この小説の中で表したかったことでもあります」

小川哲さん

 エンライトメントの実用化にはまだ時間がかかる。それまでの時間と資金を稼ぐために、小さな嘘が連なっていく……。

「世の中で悪とされていることも、その人にとってその先にある善を達成するために、小さな噓や悪をどんどん積み積み重ねていった結果、というのはよくあるというか。理想が大きいほど有限の悪は許容される。理想が高い人ほど、よりよい社会を実現しようとすればするほど、その手前で小さな悪をどんどん見過ごしてしまうということを、人類はずっと繰り返してきたという気がしますね」

 桐田は、そしてオルロージュは、それらとどう向き合い、どう対処していくのか。

 誰かが善かれと思って始めたことが、理想とは異なる方向へどんどん進んでいってしまう側面は『地図と拳』にも通じるのでは。

「確かにそれくらい抽象化すると、今回の作品と近いところがありますね。なにか巨大なものを実現しようとする時ってたいてい、いい面と悪い面をはらんでいて、それをいろんな視点から書きたい、というのは自分の根底にあるかもしれないです。それを考えるために今回は会社というものを題材にした、ということなのかも」

 そうした現象は国家規模でも会社規模でも、さらには家族規模や友達規模でも起こりうる。「それは人類の抱えている課題でしょうね」と小川さん。つまり小川さんは人類が抱える永遠の課題について書き続けている作家だと言えるのでは?

「そうですね。でもその課題に対する興味は、みんなが持つべきですよ」

オルロージュ

『オルロージュ』
小川 哲=著
講談社

小川 哲(おがわ・さとし)
1986年千葉県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程退学。2015年に第3回ハヤカワSFコンテストの〈大賞〉を受賞し、『ユートロニカのこちら側』でデビュー。2018年に『ゲームの王国』で第38回日本SF大賞と第31回山本周五郎賞を、2022年に『地図と拳』で第13回山田風太郎賞を、2023年に同作で第168回直木三十五賞を、『君のクイズ』で第76回日本推理作家協会賞〈長編および連作短編集部門〉を受賞。他の著作に『スメラミシング』『火星の女王』『言語化するための小説思考』などがある。


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