最所篤子『ジェニンの朝』

最所篤子『ジェニンの朝』

10月7日につづく物語


 SNSで「フリー・パレスチナ」と書き込むと、「10月7日を忘れるな」と返されることがある。

 2023年10月7日。ガザを統治するイスラーム抵抗運動(ハマス)がイスラエルに越境攻撃を仕掛けたことにより、多大な犠牲者が出、民間人を含む多くの人質がガザに連行された。その報復として始まったイスラエルのガザに対する苛烈な攻撃は、3年を経て今やパレスチナ全土に吹き荒れる民族浄化の嵐となった。だがこの日、ハマスは何の理由もなく唐突にイスラエルを襲ったわけではない。10月7日がなぜ起きたのか、本質はそれまでのイスラエルによるパレスチナ占領にある。

 作家スーザン・アブルハワは、第三次中東戦争でパレスチナ難民となった両親のもとに生まれた。みずからのアイデンティティを背景に、1948年のナクバ直前から2002年のジェニン虐殺事件までのパレスチナの歴史を、あるパレスチナ人一家四代の物語として紡いだ。それが本作『ジェニンの朝』である。

 イスラエルによる抑圧の下で、パレスチナで生きるとはどういうことか、訳者には想像が及ばなかった。断片的な情報や、解説書では得られないひとつの世界を体験するために、小説という媒体が訳者にとっては必要だった。『ジェニンの朝』には、過酷なイスラエルの占領の下、当たり前の小さな幸せを育みながら、人間らしく生きようとする人々の姿が描かれている。

 老人が吹く笛の調べ。村総出のオリーブの収穫。薔薇の育種にいそしむ妻。夜空の下、中庭で食事を囲む家族のだんらん。一昔前の少女漫画のような初々しくピュアな恋愛。

 歴史に埋もれる日常の細部。

 こうしたものを、イスラエルによる占領は踏みにじってきた。本作では、主人公アーマールや兄ユーセフの懸命に生きる姿を通して、占領の絶望的な不条理さが読者に迫る。そして物語を通じて〝パレスチナ難民〟というひとくくりの集団ではない、名前も人生もある一人ひとりの人間がこの苦しみを強いられ、もがいていることが浮き彫りになる。ナラティブの持つ力は、イスラエルが誰よりもよく承知している。膨大なホロコーストの物語がその証拠だ。翻って、彼らによって天井のない強制収容所に閉じ込められているパレスチナ人のナラティブは、十分に知られているとは言えまい。

 この物語を読んだ方は、パレスチナ、そして今の世界のあり方についてどう考えるようになるだろうか。訳者としては、本作が「フリー・パレスチナ」に向けて、誰かが一歩を踏み出すきっかけになることを願わずにはいられない。

  


最所篤子(さいしょ・あつこ)
翻訳家。訳書にハンナ・マッケンほか著『フェミニズム大図鑑』(共訳、三省堂)、ジョジョ・モイーズ著『ワン・プラス・ワン』(小学館文庫)、同『ミー・ビフォア・ユー きみと選んだ明日』(集英社文庫)、アンドリュー・ノリス著『マイク』、ピップ・ウィリアムズ著『小さなことばたちの辞書』『ジェリコの製本職人』、ブルハン・ソンメズ著『イスタンブル、イスタンブル』(以上、小学館)、オマル・ハマド著『オマルの日記』(海と月社)など。英国リーズ大学大学院卒業。

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ジェニンの朝

『ジェニンの朝』
著/スーザン・アブルハワ 訳/最所篤子

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