最所篤子『イスタンブル、イスタンブル』

最所篤子『イスタンブル、イスタンブル』

物語の力


『イスタンブル、イスタンブル』の訳出のお話を頂いたとき、じつは迷いがあった。英訳された優れた小説に贈られる EBRD 文学賞受賞作として出版社の目に留まったとはいえ、本来はトルコ語の小説だ。かつて中東近代史を専攻した関係でペルシャ語とトルコ語を少しかじったが、今はほぼ忘れていて、英語からの重訳になることを懸念した。

 ためらいつつ手に取った『イスタンブル、イスタンブル』はしかし、素晴らしかった。「地下牢に幽閉された囚人たちが拷問の合間を縫い、かの『デカメロン』のように十日のあいだ物語をし合う」という紹介文からは想像もつかないほど、縦横無尽に時空を飛翔する。物語のなかに物語が連なり、読者は1メートル×2メートルの牢の暗闇から、ドームがそびえる紺碧の都、灼熱の砂漠、スルタンの後宮、アナトリアの岩山や雪深い森へと運ばれる。牢の闇から囚人たちを解き放つ物語は、コロナ禍の閉塞感から訳者をも救ってくれた。しかも、こうした物語や苛烈な拷問の体験は、「人間とはなにか」という問いを検証するヴィークルでもある。その洞察は現実社会に敷衍できる普遍性を持ち、イスタンブルは時空の彼方の残酷で美しい都であることをやめ、「今ここ」になるのだ。作中では様々な謎解きも読者を楽しませるが、偶然TVドラマ『ザ・クラウン』で見たカラッチの絵画『真実と時の寓話』との符合を発見した時、この作品全体が大きな謎解きだと気がついた。ドストエフスキーの小説がモチーフになっているのはヒントがあるのですぐわかるが、さりげなく登場するボードレールの詩に注意を払えば、「海」「都会」「蟻」といったイマージュの共通性に気づく。「深淵より叫びぬ」の本歌取りといったら穿ちすぎだろうか。

 美しく簡明なことばで綴られた英語版を読み終えた時、畏怖の念に打たれ、茫然としながらも、どうしてもこの作品を訳したい思いに駆られた。「英語版はほぼ共訳だ」と作家と英訳者が口をそろえるインタビュー映像と、「作品自体に力があれば、(重訳による)誤差は乗り越えていける」という作家・村上春樹氏のことばに励まされ、訳出をお引き受けした。その代わり、不明な点は作家に繰り返し教えを請うている。やりとりの末に「私の作品を丁寧に扱ってくれてありがとう」と作家に労って頂いたときは、許された気がした。今はただ、『イスタンブル、イスタンブル』の力強い物語が、ふたつの言語による翻訳の壁を乗り越え、読者の前にくっきりと立ち現れることを祈るばかりである。

 


最所篤子(さいしょ・あつこ)
翻訳家。訳書にロッド・パイル著『月へ 人類史上最大の冒険』(三省堂)、ハンナ・マッケンほか著『フェミニズム大図鑑』(共訳、三省堂)、ジョジョ・モイーズ著『ワン・プラス・ワン』(小学館文庫)、同『ミー・ビフォア・ユー きみと選んだ明日』(集英社文庫)、アンドリュー・ノリス著『マイク』、ピップ・ウィリアムズ著『小さなことばたちの辞書』(以上、小学館)など。英国リーズ大学大学院卒業。

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イスタンブル、イスタンブル

『イスタンブル、イスタンブル』
著/ブルハン・ソンメズ 訳/最所篤子

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