最所篤子『小さなことばたちの辞書』

最所篤子『小さなことばたちの辞書』

万人に与えられた復活の道具


 はじまりはとても静かだった。幼いエズメの目に映った魔神のランプのような写字室/スクリプトリウムは、もう今はない祖父の書斎や長野の恩師の図書室を私に思い起こさせた。記憶と重なるその空間で、生き物のようなことばが救われたり捨てられたりしていた。ことばたちは儚く、すぐに失われてしまうのに、同時に世界を定義する力を持っている。私はそんなふうにことばについて考えたことがなかった。

 ことばは、身分も、性別も、年齢も、財産の多寡も、学問の有無も関係なく、誰もが使え、自分を表現できる道具だが、失われればそれが表象する世界も消えてしまう。英語のすべてを記録する『オックスフォード英語大辞典』に選ばれないことばがあるという違和感、そして選ばれなかったことばが失われることへの危惧が、エズメに女性たちのことばと、その世界を発見させ、記録させた。活動家になり切れない自分の不甲斐なさに苛立ちながらも、彼女は彼女なりの人生を、不器用にそして誠実に生き、自分のできることをして、多くの人の力を借りながら女性たちのことばと人生の断片を先の世に伝えようとした。これは史実をもとにした架空の物語だが、現実の世界でも、個人的な違和感が社会の大きな問題の入り口であることは少なくない。私たちがひそやかな違和感を追究し、それぞれの持ち場で変化のために小さな力を尽くすことは――選挙権の行使を含め――、決して無意味ではないと、この作品は勇気づけてくれるように思う。

 数十年の時が流れる物語のなかで親しくなった登場人物たちは、まるでマレー家の庭に散るトネリコの落ち葉のように、一人、またひとりと去っていく。しかし彼らの生きた証であることばたちは、あるいは『オックスフォード英語大辞典』として、あるいはエズメの辞書として揺るぎなくそこにあり、未来へと受け継がれていく。作中でディータが「復活の道具」と呼んだとおり、ことばは、限りある生という万人の諦観を照らす一筋の希望だ。ことばはそれを使う人を表すものだから、ことばの重要性に差があってはいけない。ことばと、ことばを使うすべての人の生は等しく重要なのだから。読後、名もなき女性たちのことばを集めたエズメの思いが改めて胸に迫ってくる。

 本作の促すその気づきを、ひとりでも多くの方に受け取っていただけることを願ってやまない。

 


最所篤子(さいしょ・あつこ)
翻訳家。訳書にロッド・パイル著『月へ 人類史上最大の冒険』(三省堂)、ハンナ・マッケンほか著『フェミニズム大図鑑』(共訳、三省堂)、ジョジョ・モイーズ著『ワン・プラス・ワン』(小学館文庫)、同『ミー・ビフォア・ユー きみと選んだ明日』(集英社文庫)、アンドリュー・ノリス著『マイク』(小学館)など。英国リーズ大学大学院卒業。

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小さなことばたちの辞書

『小さなことばたちの辞書』
著/ピップ・ウィリアムズ
訳/最所篤子

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