私の本 第3回 白井 聡さん ▶︎▷03
連載「私の本」は、あらゆるジャンルでご活躍されている方々に、「この本のおかげで、いまの私がある」をテーマにお話を伺います。
政治学者の白井聡さんが、三島由紀夫の『金閣寺』を初めて読んだのは高校生のとき。それから20年以上を経て、改めて気づいたこともあると言います。1冊の本を読むということが、いかに多くのものをもたらしてくれるのか。奥が深い「読書の楽しみ」についてお話しくださいました。
天皇の「お言葉」の衝撃
『永続敗戦論』が3・11を契機に書かれたとすれば、『国体論 菊と星条旗』は、2016年の今上天皇の退位に関する「お言葉」への私なりの回答ということができると思います。
あの「お言葉」は「私は象徴天皇とはかくあるべきものと考え、実践してきました。皆さんにもよく考えて欲しいと思います」という今上天皇からの呼びかけと私は受け止めました。
これは相当に思い切った行動だったと思います。それだけの危機感の高まりがあるのだということでしょう。
それがどんな危機なのか、私の『国体論』の図式から解釈すれば、「現在のみなさんにとって実質的な天皇の役割をアメリカが果たしていて、それでもういいのだというのなら、私たちはもういらないですね」ということです。
国難の時代
天皇・皇后と、安倍政権が長らく対立関係にあるというのは公然の秘密です。
親米保守派である安倍首相のお気に入りの言論人たちは、「天皇は祈っているだけでよい」とこれまで言い放ってきました。
参院選で与党が勝った直後にあの「お言葉」があり、それを聞いて、今上天皇はあそこまで踏み込んだことをいわざるを得なかったかという感慨を私は覚えたのです。
あそこまで踏み込んで発言することが許されるのかというのは論理的にはありうる批判で、憲法違反の疑いもあります。
でもそんなことは、今上天皇ご自身がもっとも強く自覚されているでしょう。それを承知で、なおやらざるを得ないという判断だったのだと思います。
天皇制の伝統とは、権威(天皇)と権力(政治的権力者)の分離です。世の中が安定しているときには、権威と権力は良好な関係にあるわけですが、過去の歴史をさかのぼると、両者が対立する時代が何度かあります。
平時においては権力と権威は調和しながら統治しますが、動乱の時代には対立関係になるのです。
かつての源平合戦、明治維新などがその典型ですが、それらはみな国難の時代です。現在は、それらに匹敵するほどの転換期だということを、私たちは強く認識する必要があるのではないでしょうか。
日本人離れしたエゴを持っていた磯部浅一
私が『国体論 菊と星条旗』を書くにあたり、どうしても引用したかった文献のひとつが磯部浅一の『獄中手記』です。
磯部浅一は2・26事件における首謀者で、この手記は彼が処刑されるまでのあいだに獄中で執筆されました。
2・26事件は、陸軍の青年将校たちによって起こされたクーデター未遂事件です。
彼らは、自分たちの決起を、私利を貪る財閥、重臣、軍閥を排除してより平等な社会を実現するための行動であると、見なしていました。そして、天皇はこの義挙を理解してくれるはずであると。
ところが、クーデター鎮圧を最も断固たる態度で指示したのは、昭和天皇その人でした。獄中の磯部浅一は、そのことを知って、自分たちの大義を理解しない昭和天皇への呪詛を書き連ねます。
磯部には妥協というものがまったくなく、強烈なエゴがあり、その個性は日本人離れしていた。
それだけにこの手記は、激烈で特異な文書であり、比較を絶するものがあります。
三島由紀夫もこの磯部浅一から強い影響を受けていました。
2020年は、三島事件から50年目になります。彼らの闘いをどう引き継ぐのかということを、いま問われているのではないでしょうか。
年齢により読み方が変わる読書の効能
私が三島由紀夫の『金閣寺』を読んだのは、高校生のときでした。
なぜか読後に、「とにかく勉強しなければいけない」と思ったのを覚えています。
先日、たまたま読んだ新聞のコラムに『金閣寺』のことが書いてありました。この小説の舞台は戦争直後で、金閣寺に火をつけた青年は、戦中に空襲で金閣寺が焼けると考えて、その燃える金閣寺を夢想して、恍惚に浸ります。
しかし、結果的に京都は空襲にあわなかったために、金閣寺は焼けなかった。だから自分で焼くことにしたというのです。
そのコラムを読んで、確かにそうだった、と思い出して、少しびっくりしたんですね。やはり『金閣寺』もまたあの戦争の問題と密接に結びついているのだな、と。
焼けるはずだったものが焼けなかった、だから焼かねばならない、というところに、三島のあの戦争に対する屈折した思いが投影されていると考えていいと思います。
私は初読から20年以上を経て、国体に関する本を書いたあと、ああ、『金閣寺』のあのディテールはとても重要なものだったんだなと改めて気づいたわけです。
読書とは、一冊のなかで大事なものが、読み手の年齢や時代の流れとともにまったく違った形で見えてくるものです。
そういった意味で驚きであり、刺激を受けて自分が変わるところに読書の楽しみがあるといえるでしょう。
日本の空虚さは近代明治からつながったもの
その三島が興味を示し、世に広めた小説に沼正三の『家畜人ヤプー』があります。
SMや汚物愛好といった性的倒錯、SF的な要素をつめ込んだ奇書で、人々はこれはキワモノだと薄笑いを浮かべて眺めてきました。
しかし、あれは大変に真面目なリアリズムの内容であり、あそこには日本人の本当の姿が描かれています。
沼正三は『家畜人ヤプー』によって、日本の近代を誰よりも徹底的に嘲罵したわけですが、その徹底性はあの戦争によって彼が負った傷の深さの反映なのです。
近代日本の空虚さや歪みは戦後だけでなく、近代の明治以降ずっとダイレクトにつながってきているものだということが、これを読むと実感できるのです。
その意味で、『家畜人ヤプー』はいま、日本の国民必読の書であると言えるのではないでしょうか。
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