西尾 潤さん『審美』*PickUPインタビュー*

自分にとっての〝美〟、そして〝審美〟とは
ヘアメイク・スタイリストの著者が書く美容の世界
大藪春彦新人賞受賞の短篇を含むデビュー作『愚か者の身分』が今年映画化され、続編の『愚か者の疾走』も話題の西尾潤さん。小説家のほかにヘアメイク・スタイリストとしての顔も持つ彼女は、かつてエステティシャンを養成する学校のインストラクターを務めたこともあるという。
「化粧品会社に就職したら美容教育課に配属になり、半年間みっちりインストラクターになるための美容教育を受けたんです。大脳生理学や皮膚科学、運動学、美容電気学や感染症学、そしてメイクアップ学など、広い範囲を学びました。それが私にとって、美容の仕事の入り口でした」
新作『審美』は、そうした経験を活かした長編。一人の美容家の波瀾万丈の人生が描かれる。
「編集者さんから美容やメイクに関わる小説を書いてみませんかと言われ、いろいろ話しているなかで私が〝『エステティック』って、日本語で平たくいうと『審美』なんですよ〟と言ったら、〝それいいですね〟〝タイトルとしてもいい〟とすごく乗り気な反応で(笑)。そこから『審美』というタイトルにふさわしい物語は何かと探っていきました」
最初は、現代を舞台にした話を考えていた。
「有名な方が亡くなった時、その人の人生を振り返る再現ドラマが作られることがありますよね。ヘアメイクの仕事でそういうドラマを手掛ける制作会社と関わったこともあったので、はじめは制作会社の主人公が亡くなった美容家の人生を調べていく話をイメージしていたんです。ただ、その場合、亡くなった美容家が素晴らしい功績のある人でないと再現ドラマを作ろうという流れにはなりませんよね。まずはその美容家の人生を固めていこうと考え始めたら、これが面白くなってしまって(笑)。もう、真正面からこの人の話を書こうと思いました」

西尾さんが見せてくれた創作ノートは、まるで日本近現代史の授業ノートのよう。当時の出来事や風俗について、年代順にびっしりと文字や図が並び、資料的な紙も多々貼り付けられている。
美容家、輝山マムの数奇な人生
株式会社キザン化粧品の会長であり、美容界のアイコンだった輝山マム。本名は輝山菊男、1933年生まれ、長崎県出身。12歳の時に被爆し戦災孤児となった彼は、どんな人生を歩み、なぜ美容の世界に入ったのか。
「参考のために、昭和期に活躍されたメイ牛山さんや山野愛子さんといった美容家の方の本はもちろん、今活躍されている方の本など幅広く読みました。そうしたところ、男性の美容家のほうが憂いを感じて、物語になる気がしたんですね。菊男を長崎出身にしたのは、自分の母が長崎県出身で馴染みのある場所だったからです。ただ、あの時代に長崎に生まれたとなると戦争や原爆を書くことは避けて通れませんでした。私も、多くの読者の方も当時を知らない世代だし、今の世界は核の悲惨な面がスルーされているような気がするので、知ってもらうだけでも意味があるかなと思いましたし。ただ、資料などを読む限り、実際は私が書いたよりももっとひどい状況だったようです」
1945年8月9日、長崎。爆心地から離れた場所にいた12歳の瀬川菊男は額に怪我を負っただけですんだが、病院に勤務中だった看護師の母きよ子は命を落とし、その後、負傷していた兄の和男、さらに祖母が死去。父の戦死も判明していたため、菊男と妹のサタヨは、親戚を頼って上京することに。
「自分に弟と妹がいるためか、きょうだい愛を描きがちなんです。菊男についても一人っ子という設定は最初から頭になかったですね。きょうだいがいればきっと相手を守ろうとするだろうし、特にあの時代は、きょうだいの絆には強いものがあったのではないかと思うんです」
菊男には、和男のほかにも兄のように頼りにしていた存在がいる。それは近所に住む早田家の息子で、喘息持ちで新聞記者の義昭だ。徴兵を免れた彼は瀬川家にも親切で、菊男とサタヨが上京する際にも手配に尽力し、その後も東京で再会することになる。菊男にとって義昭は特別な存在のようだ。
「いつも、主人公につらいことがあった時に心の支えになるような人を作っておきたくなるんです。ただ、今回は書いているうちに思わぬ方向にいきました」
というように、彼らの関係には意外な変化が待っている。が、それはまだまだ先の話だ。上京した直後に話を戻すと、親戚に会えなかった兄妹は上野の地下道で過酷な生活を送ることになる。
「NHKのドキュメンタリー番組などにもありましたが、当時、空襲にあった大都市はどこも駅前は戦災孤児であふれていたそうです。そういう子たちが上京してくるので、上野はさらに大変な状況になっていった」
大人に騙され、子供同士で奪い合う生活の中、新たな出会いもある。焚き火に寄ってくる人から金をとる「暖め屋」のノボルや、男娼のとめ子だ。とめ子から額の傷を薄くする化粧を施される場面は、菊男の今後を予感させるかのよう。やがて理不尽な別れを経て、菊男の前に、美容事業で勢いに乗る輝山千代子が現れる──。
「千代子は若尾文子さんのような人をイメージしていました。あの時代に女の人が結婚せずにビジネスを始め、しかもそれが美容業で、一代で成功して……となるとそれなりの背景がないと説得力がないので、彼女の過去や事情については細かく固めていきました」
菊男は千代子に見いだされ、美容学校に通い始める。彼女の側近によると、彼が選ばれた理由は見目のよさと、「羞恥を知っていること」だという。それはつまり「恥じらいの心や、傷を持っている」ことらしい。
「コンプレックスも何もなく美しい人と、そういうのを持っている美しい人では、また美に対する姿勢が違うと思うんです」

少年時代、生きることに必死だった頃の菊男は、自分の顔立ちの美しさを自分では受け止めていない様子。やがて美容を学び、千代子から「審美」とは何かを教えられ、仕事に携わるうちに彼は、〈痣も、火傷も、戦争も超えて、〝生き直す美〟〉を作りたいと考えるように。そんな折、アメリカで傷痕や痣を隠す化粧品を開発したレディ・メアリー女史の存在を知る。
「菊男を長崎の出身にした段階で、傷をカバーする化粧品のことは頭に浮かんでいました。レディ・メアリーは、自分の顔の痣を隠すためにカバーマークという化粧品を発明したリディア・オリリーがモデルです。原爆で傷を負った日本の女性たちがアメリカの彼女のところに行って、メイクしてもらったという事実もあります」
史実が巧みに盛り込まれる本作
主要人物たちは架空の存在だが、作中にはレディ・メアリーのようにモデルがいる人物、さらに実在の人物も登場する。また、実際に起きた出来事や風俗なども多々盛り込まれている。
「資料を読んでいくと、ポイントポイントで菊男の人生に繫げられそうな事柄が見つかるんです。たとえば市民がマッカーサーを見にいったことや、当時の上野に男娼がたくさんいたこと、雑誌『旬刊ニュース』の特集で、江戸川乱歩の司会で上野の森の男娼7名の座談会が組まれたこととか。公園に視察に来た警視総監や取材陣が無理やり一緒に写真を撮ろうとして、嫌がった男娼の一人が警視総監を殴ったという、『警視総監ポカリ事件』も本当にあったことです。記事にポカリと殴ったのがとめ子ちゃんという人だったとあったので、作中の人物の名前をとめ子にしました。川端康成の小説を英訳して彼のノーベル文学賞受賞に貢献したと言われるサイデンステッカーさんももちろん実在の人で、彼は戦後すぐに佐世保に赴任していたんです。今回は長崎から始まる話ですから、スパイスとして面白いかなと思い、少しだけ登場してもらっています」
子供たちを売り飛ばす浮浪児狩りがある一方で、身寄りのない子供を引き取る孤児院があったのも事実。また、作中に出てくるような新興宗教も、実際たくさん生まれていたのだという。
「時代的にも、心の安寧が見つからずに宗教に向かう人は多かったと思います。ある程度成功した人であっても、気持ちが弱くなっている時にそうしたものに傾倒してしまうのはありえることですし」
菊男の人生にも、思いもよらない形で新興宗教が関わってくる。他に、身近な人間の不審死など、不穏な出来事も発生。「そもそも、ずっとミステリーが書きたかったんです」と著者が言うだけに、随所に生じる謎や、後半明かされる真実には、はっとさせられる。
老いと美について至る境地は
年齢を重ねるうちに、菊男も自身のアンチエイジングに気を使うようになり、老いていく自分と向き合っていく。
「現代はもう、見た目主義がよしとはされない風潮ですが、人間には単純にきれいなものが好きという心理がある。だから、自分もずっときれいでいたいという気持ちは分かるんです。でも、〝若いから美しい〟といった表現を聞くと、〝じゃあ老いると汚いということなのか〟と思ってしまいます。誰もが老いていくものなのに」
そうした疑問や葛藤に対して、老いていく菊男はどのような思いを抱くようになるのか。本作の終盤に吐露される彼の言葉が胸に響く。菊男やその周囲の人々の姿を追ううちに、読者もきっと、自分にとっての〝美〟、そして〝審美〟について考えたくなるはず。
「菊男は、必死に生きているところが自分に似ている気がします。彼の長い人生にずっとつきあってきたので、なんだか相棒のように感じます(笑)」
次作は、また違った世界、また違う切り口の小説を構想中だという。一作ごとに、現代的、かつ難しい題材に果敢に挑む著者だけに、期待大。
西尾 潤(にしお・じゅん)
大阪府生まれ。大阪市立工芸高等学校卒業。ヘアメイク・スタイリスト。2018年、第2回大藪春彦新人賞を受賞。翌年、受賞作を含む『愚か者の身分』でデビュー。同作は2025年に映画化され話題となる。2021年刊行の『マルチの子』で第24回大藪春彦賞候補、第4回細谷正充賞受賞。その他の著書に『無年金者ちとせの告白』『フラワー・チャイルド』『愚か者の疾走』がある。



