石田夏穂『我が友、スミス』
生きてるだけでユーモラス
第四五回すばる文学賞佳作を受賞し、第一六六回芥川賞候補にも選ばれた石田夏穂のデビュー作『我が友、スミス』は、ボディ・ビルにハマった会社員女性の物語だ。純文学は時に「シリアス・ノベル」と呼ばれることがある。が、本作は少し様相が異なる。シリアスさはもちろんあるのだが、そこにユーモアも見事に共存しているのだ。
筋トレが自分にとって一番饒舌に書けるテーマだった
冒頭から六ページにわたって綴られるのは、会社員のU野がジムで筋トレに励む様子だ。一台しかないスミス・マシン──バーベルの左右にレールがついたトレーニング・マシン──に群がる賑やかな三人組を尻目に、一匹狼の主人公は黙々とトレーニングしている。そして、ブルガリアン・スクワットからルーマニアン・スクワットへと種目を変え、フォームを鏡でチェックしたところで意識がジャンプする。
〈何の脈絡もなく脳裏に「サイタマン・スクワット」なる新種目が思い浮かぶと、ダンベルを慎重に床に下ろしながら、私は小さく噴き出した。何を隠そう、私は埼玉県出身だった。しかし、どの筋肉にも響かなそうな種目名である〉
黙々とトレーニングしているものの、脳内は多弁。『我が友、スミス』はU野の思考回路が何より魅力的だ。その回路はどうやら、著者とも繋がっているよう。
「私が働いている会社はデスクワークが多く、運動不足解消のために二年くらい前からジム通いを始めました。筋トレをすると、やった分だけ少しずつ強くなる感覚が面白かったし、その経験やいろいろな発見について語りたくなりました。今の自分にとって一番饒舌に書けるテーマだなと感じて、小説にしてみたいと思うようになりました」
物語は、U野がジムで知り合ったO島に、ボディ・ビル大会出場をスカウトされるところから動き出す。O島は自身で別のジムを経営しており、ボディ・ビル業界のレジェンドでもあった。「うちで鍛えたら、別の生き物になるよ」。その言葉に刺激を受け、ハードなトレーニングを開始する──。
主人公は著者いわく、「ぼんやりした、あまり小難しいことを考えない人」である。ゆえに、ジムで筋トレする動機については、手探りだったという。
しかし、書き進める中、次第にそのモチベーションは輪郭を伴うようになった。
別の生き物になりたい──。
「ガチの筋トレをすることで身体がどんどん変わっていくことと、強くなることでジェンダー意識から解放されたように感じることの、両方が同時に表現できるかなと思いました」
ボディ・ビルの業界内では「女らしさ」も重要だった
著者とボディ・ビルとの出合いは、通っているジムだった。
「ジムにボディ・ビルをやっていそうな方が何人かいて、その中には女性もいました。ジムでは大会の競技日程なども貼り出されているんですが、本番が近づくにつれて、彼・彼女たちの体つきや雰囲気も変わっていく。〝あっ、ああいうトレーニングしてるんだな〟と観察しているうちに、怠惰な自分には絶対にできないけれど、この取り組みを書いてみたいと強く思うようになりました」
専門雑誌に手を伸ばし YouTube で国内外の大会についてチェックした。その過程で得た意外な発見を、物語の主軸に据えた。U野は「別の生き物」になりたいのだが、ボディ・ビルはともすると世間以上に、女性に「女らしさ」を求める業界なのだ。
「大会の映像を見ると、女性はポージング時に優雅な動作をしていて、この業界では女らしさも重要なんだと気づきました。日本より海外のボディ・ビルの方が、その傾向が時に顕著かもしれないと感じましたね。海外では、より個性や多様性を大事にしていそうだと勝手に思っていたので、何だか意外で。このボディ・ビルにまつわる気づきを実直に書ければ、私自身が普段生きている中で感じているジェンダーを取り巻く息苦しさも表現できるかもしれないと思いました」
U野はトレーニングと減量に勤しみながら、「戦時中のようなショートカット」から髪を伸ばし、耳にピアスの穴を開け、美容サロンや皮膚科に通い詰めて、高さ一二センチのハイヒールと格闘し……。その一部始終がユーモラスに描写されているが、彼女の内側には少しずつ違和感が溜まっていく。
最初から大まかなあらすじは、頭の中に存在していたそうだ。
「主人公がいて、スカウトされて、脱毛とかして、ポージングの練習をして、家族と喧嘩して、本番で何らかのアクシデントが起きて、最後は以前通っていたジムに戻りました、のように考えていました。こうまとめると、昔話みたいですね(笑)」
確かに物語構造だけを取り出してみれば、ジブリアニメにも通ずる「行って帰ってくる物語」だ。主人公はボディ・ビル業界という「異界」を旅して、やがて元いた世界の日常へと戻ってくる。しかし、以前の自分と、旅を経験した後の自分は、決して同じではない。
「ひと皮むけた姿が書けたらいいなと思っていました。競争したい、勝ちたいって気持ちは主人公にもあったと思うんですけど、ボディ・ビル大会を目指す過程で自分史上最大に、瞬間風速的に自分を好きになれた。彼女が最後にやっていることは、最初の場面でやっていることと同じことなんですけど、どこか違って見えるように書きたかったです」
普通の人の普通の人生が書いていて一番、面白い
今となっては堂々たる純文学作家だが、もともとエンタメ志望だった。普通は逆ではないかと思うのだが、かつて書いていたものは、笑いゼロ。
「髙村薫さんの作品が大好きで、こんな格好いい文章があるんだ、私も同じようなものが書きたいと思ったんです。悪いやつらが集まって悪いことをする、といったサスペンスものを乱歩賞に何作か応募したんですが、一次選考すら通りませんでした(笑)。内容が伴わないばかりか、登場人物に無駄に超カッコいい名前をつけて、キザすぎる文章で、舞台も何の意味もなく外国だったりしていたので、当然かもしれませんが(笑)」
その路線から一転、初めて「普通の人の話」を書いて投稿したところ、第三八回大阪女性文芸賞を受賞した(「その周囲、五十八センチ」)。脂肪吸引にハマる女性の話だ。そして本作ですばる文学賞佳作を受賞し、選考委員の金原ひとみから「久しぶりに小説でこんなに笑った」と絶賛を浴びることになる。
「普通の人の話を書き始めてから、笑いの要素が入ってくるようになりました。主人公がわりと自分に近い存在になったので、照れで書いちゃっている部分もありますが、ふざけた文章が入ってくる方が書いていて自分が楽しいんだと思います。いい意味でも悪い意味でも、ひとりよがりで書くのが自分っぽいのかもしれません」
既に「群像」三月号に中編「ケチる貴方」を発表しており、こちらにも笑いが入り込んでいる。モチーフが「女性の身体の変容」である点も、過去二作と共通している。
「自分の身体は一番身近なので、一番書きやすい題材なんだと思います」
もう一つの共通点は、主人公の性格が「真面目」であることだ。中でも『我が友、スミス』のU野は、自分の性格を「馬鹿真面目」と認定している。
「私も馬鹿真面目です。遊びがなくて会社で名前を覚えられないくらい(笑)。そういう意味ではU野に親近感を抱きながら書きましたが、U野はさらに真面目な性格と思います。そして、真面目だから辿り着けた境地があったのかと思います」
周囲から「真面目」認定され、「つまらない」と雑に判断されがちな人間も、詳細に観察してみればこんなにも「面白い」。本作のU野が会社の同僚や家族に内緒でボディ・ビルをやっていたように。あるいは、著者が笑える小説を書いていたように。
「今は二つの作品を書いていて、一つは普通の人の普通の話で、もう一つも普通の人の会社の話です。何の説明にもなってないですね(笑)。これは全く以って揶揄しているわけじゃないんですが、恋愛とか友達とのこじれた関係とか、何らかの辛い過去を持った人の話を書いても、私はうまく書けないと思います。真面目で地味で、それこそ周囲から〝つまらない〟と言われがちな普通の人の普通の人生が、私にとっては書いていて一番面白いと最近気づきました」
そうやって出来上がった小説が、読者にとっても「面白い」ことは奇跡のようにも思えるが、作家にとってはそれほど驚くことではないようだ。
「人間って、生きてるだけでユーモラスだなと思うんですよ」
題名のスミスは、バーベルの左右にレールがついたトレーニング・マシン。落とさぬよう脇で支える補助がいらず、一人で筋トレに邁進できる。スミスをこよなく愛するのが主人公U野だ。運動不足ゆえにジムに通い始めたという彼女が、ひょんなことからボディ・ビル大会を目指す物語。純文学の裾野を広げること間違いなしの快作だ。
石田夏穂(いしだ・かほ)
1991年埼玉県生まれ。東京工業大学工学部卒。2021年に「我が友、スミス」で第45回すばる文学賞佳作。また同作にて第166回芥川賞候補にも選ばれた。
(文・取材/吉田大助 写真撮影/太田真三)
〈「STORY BOX」2022年4月号掲載〉