◇自著を語る◇ 角幡唯介『エベレストには登らない』

◇自著を語る◇  角幡唯介『エベレストには登らない』

消えてしまう思考の断片を紙に残す

 心のなかに無をかかえるのは凡人には不可能である。何十年にもわたる修練のすえに煩悩を克服し、解脱して悟りを開いたものにしか無の境地はひらかれない。したがって九十九・九九パーセントの人はつねに何かを考えているのであり、意識的だろうと無意識的だろうと、人の頭のなかには雑念のたぐいが湧出しては消えてゆくものである。

 こうした雑念の多くは所詮、脳内の神経細胞の電気信号が発火した結果生じる化学反応の結果にすぎず、要するに線香花火みたいなもので、はかなく消えてゆく運命にある。

 実際それらは、今日の夕食はまた餃子かなぁとか、さっき本屋の前にいたおばさん、パタゴニアのフリース着てたなぁといった、この世に残す価値など一片もない、正真正銘のとるにたらない戯言のようなものばかりだ。記憶の観点からもこれらは消えてゆくべきであり、下手に残れば脳容量がパンクして、残さなければならないものを残せなくなるので、はっきり言って迷惑だ。

 しかしときには、消去するにはもったいない雑念というのもある。これは稀なケースで、残念ながら月に一回ぐらいしか生じないのだが、しかしときには雑念から思考のレベルに達するものもあり、消えるには惜しい。こうした思考の断片は、しばしば新しい発想、いや、これまでの世界観を変えてしまうような画期的な視点にまで成長、発展をとげ、ややもすれば次の探検作品をかたちづくる中核になることさえある。だから侮れないし、これはしっかり育てなければならないと、そのたびに肝に銘じ、就寝中にメモをとったりする。

 だが、そこまでの大思考に発展するものはやはり少数、多くは思考の断片のレベルにとどまる。ということで、本格的な探検物やエッセイ集、論考のような原稿用紙四十枚以上の文章に残るのは大思考のみであり、そのほかの有象無象の思考の断片は、書かれることなく終わる結果とあいなってしまうのである。

 書かれないということは世の中に残されないことであり、存在しなかったも同然。本当は存在したのにシュレッダーにかけられ、存在しなかったことにされてしまう。これは悲しいことであり、あってはならないことだ。人の道に背く行為である。

 夜空の星にたとえれば、市街地から見える星はせいぜいシリウスやベガといった明るい一等星のみ、アルフェラッツやポラリスなど二等星になると肉眼で見分けるのはかなり厳しい。無数の星々のなかでシリウス、ベガ級の一等星にあたるのが大思考であり、アルフェラッツ以下の思考の断片は、そこにあるのに、都会の灯りで見えないという理由で事実上ないとみなされてしまうのである。

 これら儚く消えてゆく運命にある日々の思考の断片も、雑念ではなく思考であることにはちがいない。どんなに細かなものでも思考である以上、それらはすべて私という人間がこの世に存在したことの証である。私の人生の一部だ。たしかに私はそのとき、それを考えたのだ。であるなら、書き手の立場からすると、私はそれらはすべて残したいと思う。

 とはいえ、いったい、どうしたらいいのか。

 と考えたときに、私には、はっと思いつく解決策がある。月刊誌「BE─PAL」にもつ連載枠でこの思考の断片を書いてしまえばいい。そうすれば、いわゆるウィンウィンの関係になれる。というのも、私としても、それを考えた者としてのそのときの私を救出できるわけだし、思考の断片のほうも消されずこの世界に定位されるのだから。読者が喜ぶかどうかはわからないが……。

 ということで、私はもう六年間も本来なら残されないような思考の断片を救出しつづけてきた。このほど当該連載が単行本となって販売されることにより、思考の断片はあらためて本というかたちで存続がゆるされることになった。寿ぐべきことである。

角幡唯介(かくはた・ゆうすけ)

ノンフィクション作家・探検家。一九七六年北海道芦別市生まれ。早稲田大学探検部OB。チベット・ツアンポー峡谷の探検を描いた『空白の五マイル』で開高健ノンフィクション賞、大宅壮一ノンフィクション賞他、『雪男は向こうからやって来た』で新田次郎文学賞、『アグルーカの行方』で講談社ノンフィクション賞、『探検家の日々本本』で毎日出版文化賞、『極夜行』で本屋大賞ノンフィクション本大賞、大佛次郎賞を受賞。他の著書に『漂流』『新・冒険論』『極夜行前』など。

書影
『エベレストには登らない』

〈「本の窓」2020年2月号掲載〉
◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第12回 前編
◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第78回