物語に忠実であろうと意識した
新井……作家デビューから十年、本当におめでとうございます。『サラバ!』は主人公の圷歩がイランの病院で生まれたシーンからの半生が描かれています。圷一家はイラン革命の後、大阪に移り住み、再び今度はエジプトで生活するようになりますが、これは西さんご自身のプロフィールと重なるところがありますね。
西……十年目の記念作品として、男の子を主人公にした長編小説を書こうと決めていました。2013年から執筆を始めましたが、アラブの春が起こり、私がエジプトで過ごした頃と情勢が大きく変わっていたので、実際にエジプトへ取材に行きました。宗教や母国語が違う男の子同士の友情も盛り込みたくて、コプト教徒の男性にもお話を伺いましたよ。
白井……西さんがエジプトで過ごした時間はそんなに長くなかったと思いますが、ご自身にとって影響が強かったのでしょうか?
西……(エジプトにいた)小学校一年から四年生くらいのことってよく覚えていませんか? 中学年でいろいろな価値観が決まってきますし、その時期になると女の子同士の複雑な関係性もわかってくる。その時期って、細胞がぶわーっと分裂していくような爆発力がありますよね。実人生でも長年来の友達よりも、一昨日出会った子に自分のことを深くわかってもらえることもある。時間の長さだけじゃないことも多々あるという思いが、この作品に影響していますね。
新井……歩が「左足からこの世に誕生した」という描写が印象的ですが、それと同じくらい私は歩の姉・貴子が生まれた時のシーンが気になりました。ふつう出産は美しい話で語られることが多いのに、早く陣痛がきたものの貴子はなかなか生まれてこなくて、母親が「はよ出てこんかい」と叫ぶ(笑)。生まれてしまえば母親と子どもはもう別々の人格をもった個々の人間でしかないんだなと痛感しました。
西……「左足から登場した」という文章はぱっと出てきて、物語がスタートしました。歩の人物造形も自然と浮かんできて、もちろん自分が書いているものなのですが、物語に忠実であろうと意識していました。
なかったことにされている感情も全部書く
白井……エジプトで歩はヤコブという少年と友情を育むようになります。ヤコブが「数が少ないことが問題じゃない」と言いますが、人が一人一人違うことを認めることの大切さを改めて感じました。マイノリティであるというだけで、負けが決まってしまいそうな局面も多いですが、それでも強く生きていけばいいんだという気持ちになりました。
西……海外で生活をすると、自分たちだけ肌の色が違ったり、そこではマイノリティでありながらも圧倒的に裕福だったりする。自分が日本人であることをいろいろな形で突きつけられますよね。エジプトにいた頃は恵まれていることが恥ずかしかったですし、そんなことで悩むこと自体とても失礼なことだと思っていました。大人になって、太宰治の『人間失格』で「私は実家の大きさにはにかんでいた」という言葉を読んで、救われたような気持ちになりました。
新井……歩の父親も仕事で海外に行くことになったとはいえ、その国でお金持ちのような生活をすることに葛藤があったのでしょうね。
西……とくにドバイに行ってからは出家を考えているくらいなので、歩が思う以上に父親はつらかったはずです。狭い家を嫌だというよりも、大きい家を嫌だということのほうが言い難いですよね。そういうなかったことにされている感情も全部書きました。
白井……上巻ではチャーミングな母親とエキセントリックな姉に振り回されながらも、歩の人生はうまくいっていて明るい感じがしますが、下巻からは一家離散や親友、恋人との関係で悩むことが多くなって、読んでいるのがつらくて苦しかったです。
新井……どこまでひどいところを見せつけられるんだろうと思いながらも、西さんと歩を信じて希望をなくさず最後まで読みきりました。
西……私も新井さんと同じような気持ちで書いていましたよ。どういうハッピーエンドかわからないけど、絶対に救いはある。
『さくら』という小説で、物語を動かすためにお兄ちゃんを自殺させてしまったことをずっと後悔していたんです。当時の私にはあれが全てでしたし、恥じることもないけれど今だったらああいう書き方はしない。髪が抜けてきたとか、誰にでも起こりうることで歩を追い詰めていきました。もしかしたら『さくら』にあった瑞々しさは失ったかもしれませんが、『サラバ!』はデビューから十年経った今の私でしか書けない小説です。
白井……『さくら』は発売当時、店頭でも大きく仕掛けたほど大好きな小説ですが、作家の方は登場人物にそこまでの思い入れがあるものなんですね。
西……『きいろいゾウ』を書いた頃までは、小説を書きたいという思いだけで書いているところがありました。でも私が大好きなアーヴィングやトニ・モリスンは、主人公を描くためにその三代前から語るなどして、一人の人物をきちんと描いていきます。だからこそ物語が終わっても彼らが生きていると感じられる。ローラン・ビネの『HHhH』などを読んでも作家が物語に責任を持っているのがわかります。自分もそういう作家でありたいですし、自分の物語を形作る上で彼ら登場人物を生み出した以上、責任を取りたいと今は思っています。
「文芸、やっててよかった!」と思えるいい本
白井……私はずっと涙をこらえながら『サラバ!』を読みました。読み終えた後は気持ちがよくて、この物語は心の浄化小説だと思いました。『サラバ!』を読むと読まないとでは大きな差があって、自分の心の中が変わっているのがわかったんです。
西……現実は変わらなくても気持ちが変わるというのは、小説の中でもやってみたかったことです。歩も幸せを失っていきますが、気持ち次第で世界を変えていく。どの作品でもそういうことをやってきたつもりですが、白井さんにそう言っていただけると嬉しいです。
新井……作家の方にお会いした時には必ずどういうふうに小説を書かれているのか伺うんですが、西さんは上下巻の長編小説であってもプロットを用意されたりしなかったんですよね。最近西さんの執筆方法を話すとみなさん、驚かれます(笑)。
西……この小説でもプロットは書いていません。担当編集の方と最初は三人称にしようという話もあったんですが、歩が産声を上げてしまったからにはもう一人称でいくしかない。一人称で語り続けるのは自殺行為かなと思ったりもしましたが、最終章に辿り着いた時、一人称で正しかったと一人で興奮しました(笑)。
実は一節、まるまるデータが消えてしまったところがあって、その時はもう笑うしかなかった。忘れないうちに書こうと思っても、小説は生き物なので違うものが書き上がってしまって、数秒前の自分と同じ自分なんて存在しないんだなと思いました。歩は私自身がモデルではないけれど、起こったことで動いた私の感情が、その時々で小説に表れています。
白井……そのお話を伺うと、それも含めて「サラバ!」ですね。
西……全部「サラバ」になりますよね。私たちって日々一秒ごとにサラバを繰り返しながら生きている。連載のためにタイトルを決めた時には、まだ歩とヤコブのシーンは考えていなかったんです。でも二人だけにわかる言葉が出てくるはずだと考えた時に「サラバ」という言葉が浮かびました。どこかアラビア語のような音の響きもありますし、このタイトルにして本当によかったです。
新井……この小説を好きだという人のことを、無条件で私は好きになれると思っていて、今日初めてきちんとお会いした白井さんのことももう大好きです(笑)。もし私が書店員を辞めたとしても、もし西さんがもう小説を書かなくなったとしても、私は一生、好きな作家として西さんを挙げると思います。
西……うわあー、本当に嬉しいです。私の小説が読まれるようになったのは、書店員のみなさんが棚を作って個人的に応援してくださったからです。書店員のみなさんにずっと恩返しをしたいと思っています。「読んでください!」と書店員さんに言った時に恥ずかしくない本を目指したので、書店員さんにはぜひ読んでほしいです。『さくら』を刊行した時の反響がすごくて、昔は本が売れるというのがすごく怖かったんです。でも書店を回った時に、みなさんが赤ちゃんを抱えるようにして本を持ってきてくださって、本をかわいがってくれているのがわかりました。それを見てから売れることは全然怖くなくなりましたし、書店員さんに会うのがいつも楽しみです。
新井……西さんが書店にいらっしゃると、私に会いにきたのかなって思っちゃうんです(笑)。本を売る立場からすると、本には不思議な力が宿っているようにも思うんです。
西……本ってただ黒い文字が印刷されているだけなのに、そこにはすごい世界が広がっている。もし最後まで『サラバ!』を読んで、この物語の中に信じられるものが見つけられなかったとしたら、ほかの物語を読んでほしいです。世の中にはたくさん素晴らしい物語があって、書店に行ったらなんぼでも置いてある。もちろん『サラバ!』がめっちゃ売れてほしいけれど、ほかにも読まれるべき物語があると思うと心強いです。『サラバ!』には物語への感謝の気持ち、「ありがとう」を詰めています。
新井……実は「この本はいい!」と大声で言うのは勇気が要ることなんです。やっぱり誰かに否定された時は落ち込みます。でも『サラバ!』で否定されても傷つくものは何もないと思える。そんな小説に出合うことは、人生の中でそんなにあることじゃないです。
白井……西さんがこの作品に込められたものを考えると、売る側にも覚悟が必要ですね。「本当にいい本だから買ってください」と、『サラバ!』をお客様に責任を持ってお薦めしていきたいです。
西……プロレス好きの私からすると、シャイニング・ウィザードをやりすぎて人間にはできないような骨がいっぱいできた武藤選手のように、たとえパソコンを打っているだけだとしても(笑)、私も人間にはできないような骨ができるくらいのことをやっていきたい。文芸書が売れない時代になって、文芸書担当の書店員さんは肩身が狭いかもしれませんが、「文芸、やっててよかった!」とみなさんに思ってもらえるようないい本をこれからの十年で絶対に書きます。小説にはゴールや正解がないぶん難しいことですが、ハードルを上げて出し惜しみせず、ストロングスタイルで執筆していきたいです。
(構成/清水志保) |