デッサンするように赤松を描く
中川……『あなたの明かりが消えること』のオビにコメントを載せていただきました。「大の大人が泣きながら読んだ」という言葉どおり、本当に泣いてしまいました。溢れるままに言葉を書き留めて翌朝感想文を読み返してみたら、恥ずかしいラブレターのようでしたよ(笑)。本書はある家族の姿を、章ごとに視点を変えて描かれていますね。
柴崎……オブジェをさまざまな角度からライトアップしてディテールを浮かび上がらせるように、たくさんの視点から描くことでひとつの家族を立体的に捉えることに挑戦しました。実はこの四人以外のストーリーもある長い小説だったものを、思い切って削っていき研ぎ澄まして単行本にしました。
新井……最初の語り手・すみ江は、あることが原因で離婚後、広島の高級旅館で働きながらひっそりと生活をしています。その旅館には立派な日本庭園があり、品のいい大きな赤松がある。その赤松に引き寄せられるようにして画家の来栖現と出会いますが、確かに樹ってどこか人間っぽい印象を持つことがありますよね。
柴崎……最初は「なんでこんなにデッサンをするように、赤松のことを一生懸命書いているんだろう」と不思議だったんです(笑)。でも僕の思い浮かべた松が本当に格好良かった。僕の中でぼんやりとしたシルエットでしかなかった松を描写するうちに、彼らがそれぞれ、赤松の佇まいから生き方なり何かを感じ取っていることに気づきました。
中川……日本人は松の樹が好きですよね。日本人の特殊な精神構造とマッチするところがあるんでしょうか。そういう意味でもこのシーンは入り込みやすいですね。
現は妻子がいながら女性関係で世間を騒がせる有名画家ですが、すみ江も現に自然と恋心を寄せていきます。彼女はいい意味で曖昧な女性で、物語の最初に読むには感情移入しやすかったです。
新井……大胆にも現の個展を見に東京へ行きますが、そこで現の妻・佳世に再会します。二人は幼少時代からの知り合いで、旅館を辞めることになったすみ江を、佳世は自分の小料理屋で働くようお願いする。佳世はすみ江と現の関係に気づいていたかもしれませんが、意地悪な気持ちで彼女を誘っているわけじゃないのが伝わってきました。
柴崎……佳世の視点で一切描いていないので、佳世がどこまで気づいていたのかは僕にもわかりません。現には現の、すみ江にはすみ江の、佳世には佳世の真実があって、たくさんの真実が存在するのが現実ですよね。
読者の方にも向けている言葉
中川……第二話では現と佳世の娘・愛子が語り手です。家族との生活を顧みず、女性関係で世間を騒がす現を、愛子は大嫌いですが、この感情は僕も家族に持ったことがあります(笑)。
柴崎……小さい頃から現が不在の中、愛子は周りに女性しかいない環境で育っていますが、僕自身はそういう環境を経験したことがない。ただ親への反発や憎しみのようなものは少なからず持ったことがあったので、その感情を膨らませて書いていきました。
僕の祖父は売れない俳優だったんです。父はそれを見て絶対にサラリーマンになろうと思った人間で、僕が銀行を辞めて風来坊のような生活をしているとやっぱり揉めるんですよね。祖父に対して遠い共感のような気持ちが、精神的な背景になっているような気がします。
新井……佳世はふだん元気で明るい女性ですが、大病をしていて倒れてしまうことも何度かありました。それでも家に帰ってこなかった父親を愛子は憎んでいますが、父が病気のため東京で一人暮らしをしていると知ると、父の死に怯えてしまう。いざ死が目前に迫ると家族にとってこんなにも怖いものなんだと、私も似たような気持ちになったことを思い出しました。
この家族はとても変わっていますが、みんながはっとするような普遍的なことが書かれていました。
中川……僕は愛子の夫・哲生の章がとてもよかったです。佳世が哲生に「寂しさが人を賢くするの」と言いますが、この言葉がすべてを締めくくっているように感じました。後世に残したい格言のようです。
柴崎……ほかの章は何年も前に原型になるものを書いていましたが、この章はゼロから立ち上げて完成させたパートです。
そのシーンは一切手が止まらないまま自然と出てきたので本当に不思議です。すっと書いてしまって読み直した時に「ここはちゃんと書けたなあ」と思ったくらいです(笑)。ここで佳世が哲生に語る言葉は、佳世が読者の方にも向けている言葉なんですよね。もっと言うと作者である僕にも向かっている。僕もこのシーンがすごく好きです。
中川……技巧を尽くして出てきた言葉ではないというのは、読者としては嬉しいですね。
新井……哲生がふだんのお礼にと羊羹を持って行ったら、佳世が哲生の好意に対して少し悲しそうな感じだったのが印象的でした。自分自身はあまり寂しいという感情がないほうなのですが、この小説を読んでいるとじーんとするシーンがたくさんあります。心に蓋をしているだけで私も心の奥のほうにそういう感情があるのかもしれませんね(笑)。
柴崎……僕は大人になれば制約もなくなって、気持ち的に楽になれると思っていたんです。でも大人になってもやっぱり孤独であることに変わりはない。大人になってからの孤独はどうやって癒せばいいのだろうと常々考えていて、もし大人の孤独を癒せる方法があるとしたら、こういう形なんじゃないかなと、この小説で提示しました。
中川……佳世のような母親に育てられたら、僕の人生も変わっていたかもしれませんね。
柴崎……佳世という光によってほかの人たちの孤独が癒されていきますが、佳世が抱えている孤独は巨大なもので、四人がいるからこそ癒されるんです。
人を喪失する哀しい予感
きらら……佳世を失ったあとも放浪を続けていた現は、画家として一番大切な視力を失ってしまう病気になります。視力がだんだんと弱くなっていく描写がありますが、これはなにか柴崎さんの体験をもとにされたのでしょうか?
柴崎……現の章を書く前に、ダイアログ・イン・ザ・ダークというイベントに行きました。暗闇の密室を六人一組で入るんですが、目が見えない方が先導してくださるんです。人工的につくった完璧な暗闇は、一センチ足を動かすのですら怖い。暗闇の本質や、暗闇で感じる恐怖、そこを出ると世界が一瞬で変わることが衝撃でした。自分が想像する闇と実際の闇は違っていましたね。
新井……ピアニストが指を切断されてしまうことに匹敵するような、アーティストにとって自分の生きる意味を失うことだと想像するのですが、現は視力を失うことを落ち着いて受け入れていました。佳世がいないと絵を描く意味がないようにさえ思えました。
柴崎……一番大切な人を失うのと似たような経験は、誰にでもありますよね。年を取れば取るほど人を喪失する哀しい予感を誰しもが持っています。
中川……佳世という大きな存在がありながら、現は女性関係が派手なままですが、芸術家の方は色恋の感情に正直なのでしょうか(笑)。
柴崎……芥川龍之介が短編を書くために恋愛している、というようなことを言っていて、恋愛は心の運動でエネルギーが必要なもので、僕も芸術に恋愛は活かされると思います。でも恋愛が一番尊いかというとそうとは限らなくて、順位づけとしては現にとっては絵が一番大事で、世界には女性は二種類しかいなくて、佳世かそれ以外なんです。
新井……余命が短い佳世の希望で、現と佳世が北海道へ行くシーンを読んで、これは本当の愛の話なのだと思えました。ずっと元気でいてほしいという自分の気持ちより、現は佳世の気持ちを優先しました。相手を振り向かせることよりも純粋にその人の幸せを願う姿がよかった。それまでは現という男性に共感できなかったんですが(笑)。
柴崎……現のパートを書いているのが本当に楽しかったんです。病院で医師に見下した態度をとるあたりなんて、ふだんの自分の調子のまま書けたんですよ(笑)。
きらら……作中には現が描く絵の描写があまりなかったのですが、柴崎さんの中で明確なイメージはありますか?
柴崎……ボツにしたエピソードに、ある画商が現の絵を語るシーンがあったんです。僕が一番好きな画家の絵をイメージして書いていましたが、そこは読者の方に自由に想像していただきたいです。
中川……十年、二十年経って自然な流れで柴崎さんが書き上げた続編を読みたいですね。
柴崎……単なるスピンオフの作品ではなくて、この家族の話に続きがあるとしたら、いつか書いてみたいですね。
いまは『三軒茶屋星座館』シリーズの最新作を執筆中です。舞台になっている三軒茶屋は、再開発が進んでいて、住人たちの気持ちがどこへ向かっていくのか。現実とは違う結末であったとしても、僕なりにきちんと書きたいと思っています。
中川……三軒茶屋の店舗では柴崎さんの作品を大きく展開していました。続編も楽しみにしています。
柴崎……書店を回る機会をいただけて、面識のある書店員さんが増えてきて挨拶ができる。僕の作品を読んでくださる方が増えてきて感想をいただけるこの環境がとても幸せです。
いままで書店は遠い世界だったので、書店の売り場がどう作られているのかを知って、ちょっと驚いているんです。もっとシステマティックに棚は作られていると思っていましたが、実際に僕の本を読んでくれた書店員さんが店頭で本を推してくれているのが信じられないくらい嬉しい。
みなさんからの期待を裏切らないようにという思いが、次の作品へ向かう力になっています。これからもよろしくお願いいたします。
(構成/清水志保) |