西尾 潤『審美』

美を審かにする
長年、美容の世界で生きてきた。わたしが20代前半に就職したのは、大手化粧品会社。その中でもエステティック事業部・美容教育課という、まさに美容教育を担う部署に配属された。半年間、インストラクターになるための幅広い研修を、びっしりと受けさせてもらった。
エステティックの範疇は実に広い。皮膚科学、大脳生理学、生理解剖学、運動学、化粧品学、美容衛生学、メイクアップ学、カウンセリング学、そして扱う化粧品ブランド学まで。思えば、お金を払うどころか給与をいただきながら、これほどの基礎を学べたことは、本当に幸運だったのだと思う。
当時、教育課には「先生」と呼ばれていた、小柄で快活な美容部長がいた。彼女が最初に教えてくれたのが、「エステティックを日本語で表すと〝審美〟。審判の審に美容の美。つまり、美を審かにすることよ」という言葉だった。
今回の執筆にあたり、題材を探しているときのことだ。担当編集が、この〝審美〟という二文字に驚くほど強く反応した。わたし自身には馴染み深い語だったので、特別な感慨もなかったのだが、気づけば話の終盤には「これで行きましょう」と、内容よりも先にタイトルが決まっていた。過去に長編を4冊書いてきたが、こんなことは一度もなかった。
そこから「美」への様々なドラマを考えはじめた。試行錯誤の末、まずは「亡くなった有名美容家の人生を、若いテレビ番組制作者が追いかける中で、様々な美に気づいていく」という枠組みを考えた。しかし、美容家本人の人生がドラマティックでなければ成立しない。では、その美容家はいったいどんな道を歩んだのか。考えていくと、彼の人生が目を離せないものへと膨らんでいった。
──『審美』の主人公、マムこと菊男の誕生である。
長崎に生まれ、美しい母と優しい父、兄と妹に囲まれて育った少年を、時代の荒波は容赦なく呑み込んでいく。原爆、終戦、別れ、惨禍、旅立ち……。美を審らかにするには、その反面の影を描かざるを得なかった。結果として、菊男にはずいぶん過酷な体験を背負わせてしまった。この1年半、わたしはずっと彼と共にいたように思う。
菊男には、わたしが美容教育課で学んだこと、メイクアップの現場で経験してきたことも、遠慮なく渡した。一筋縄ではいかない人生ではあるが、それでもようやく、皆さんに彼を紹介できることが、今は嬉しくてたまらない。
西尾 潤(にしお・じゅん)
大阪府生まれ。大阪市立工芸高等学校卒業。ヘアメイク・スタイリスト。2018年、第2回大藪春彦新人賞を受賞。翌年、受賞作を含む『愚か者の身分』でデビュー。同作は2025年に映画化され話題となる。2021年刊行の『マルチの子』で第24回大藪春彦賞候補、第4回細谷正充賞受賞。他の著書に『無年金者ちとせの告白』『フラワー・チャイルド』『愚か者の疾走』がある。


