週末は書店へ行こう! 目利き書店員のブックガイド vol.9 丸善お茶の水店 沢田史郎さん
『クレイジー・フォー・ラビット』
奥田亜希子
朝日新聞出版
主人公の愛衣は、嘘や隠し事を〝匂い〟で感じ取ってしまう特異体質……だなんて、生きていくのがさぞ辛かろうな。相思相愛の恋人やツーカーの仲の親友でも、時には本音を言えない事はあるだろう。しかし彼女には、それが〝匂って〟しまうのだ。
《だから愛衣には、サンタクロースの存在を素直に信じていた時期がない》という。小学生の頃には、仲良し三人組の(筈だった)二人が、自分を外して遊んでいた事に気付いて、友情の虚しさを噛み締める。
そして、中学、高校と歳を重ねるにしたがって周囲に漂う嘘と隠し事の〝匂い〟は格段に増し、彼女はそれまで以上に他人と距離を置くようになった。《誰しも大なり小なり人に言いたくないことを抱えているものだ。隠しごとを見抜けると主張する相手と一緒にいたい人間はいない》のだから……。
しかし……。例えば、素行不良の同級生にも、彼なりの事情があったと知った時。例えば、友人たちからのサプライズに思わず涙腺を緩ませた時。例えば、バイト先の先輩が、自分の仕事ぶりを認めてくれていたと知った時。そんな些細なきっかけが、まるで雲間から差し込む陽射しのように、彼女の胸の闇を払う。
そうなのだ。一口に〝嘘〟や〝隠し事〟と切り捨てても、そこには相手への気遣いや励ましが潜んでいるのかも知れず、そこまで理解しようと思うならば、結局は語り合う事、伝え合う事以外に方法は無いのだ。
その事実を文字通り身を以て学んだからこそ、34歳になった彼女は、クラスメイトと喧嘩してグズる娘を両手で包み込むように、語りかける事が出来たのだろう。《誰とだって、いつかはお友だちになるかもしれないの。だから、今、お友だちじゃない人を、お友だちじゃないからって、簡単に傷つけたらだめだよ》と。
と、ここまで書いて気が付いた。思えば奥田亜希子は一貫して、伝える事の難しさと大切さを描き続けてきた作家なのだ。
デビュー作『左目に映る星』では、渾身の告白に全く気付いてくれない相手に呆れながらも、主人公は爽やかに決意する。《でも、伝わらなかったならば、また言えばいい。いつだってどこでだって、何度だって言えばいいのだ》と。
『透明人間は204号室の夢を見る』では、書けなくなって自分を見失った小説家が、誰かの為ではなく「ただ書きたいから書く」という情熱を思い出して、《ちょっとどころじゃないじゃん》と編集者が笑い出すまで、新作のプロットを語り続ける。
「五つ星をつけてよ」(短編集『五つ星をつけてよ』所収)では、日用品から老いた母の介護サービスまでネットの評価に依存していた女性が、自分自身の〝体感〟を信じる勇気を得て、馴染みのパン屋を尋ねて行く。《ほかの人は知らないけれど、私はあなたの店が好きだと、落ち着くのだと》ネットの口コミではなく、自らの言葉で告げる為に。
そんな奥田亜希子の現時点での集大成とも言えるのが『クレイジー・フォー・ラビット』だ。伝えようと心を砕く事の健やかさ、解ろうと歩み寄る事の温かさを、この作品で思い出して貰えたら、書店員として、いやそれ以前に彼女の一ファンとして、これ以上の喜びは無い。
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(2021年9月17日)