朝比奈あすか『ななみの海』

いい大人になりたい

朝比奈あすか『ななみの海』

『憂鬱なハスビーン』で第四九回群像新人文学賞を受賞しデビューした朝比奈あすかは、大人たちの「憂鬱」をなまなましく活写する作風で知られてきた。近年は現代社会をサバイブする子どもたちの「葛藤」を描く物語が増えている。最新作『ななみの海』も子どもが主人公の物語だが……まぎれもなく大人たちの物語だった。


児童養護施設に存在する一八歳のタイムリミット

 首都圏難関校の中学受験に挑む一人息子を見守り、共に戦う母を主人公にした前著『翼の翼』は、自身も母である著者の実体験から構想が生まれた作品だった。最新刊『ななみの海』は、ヒロイン・ななみの大学受験をクライマックスに据えている。そこにも実体験はさまざまな形で入り込んではいるが、物語の出発点は大きく異なる。きっかけとなったのは、二〇一九年に千葉県野田市で起きた、当時一〇歳の少女・心愛ちゃんを父親が虐待のすえに死亡させた事件だ。

「児童虐待を受けた子どもの〝その後〟について考えるような小説はどうだろうか、と編集者の方と話し合っていた時に野田市の事件が起こり、どうしようもなくやるせない気持ちになりました。そこで編集者の方から、〝虐待された子どもたちが楽しく幸せに遊んでいる天国のような場所を描くファンタジーであり、その世界の成り立ちにまつわるミステリーのような小説はどうでしょう?〟とご提案いただいたんです。すごく心を打たれて書いてみたいなと最初は思ったんですけども、具体的に構想を進めていくと、私にはファンタジーの形で子どもを書くことができないなと感じました。虐待を受けた子が出てくる話を書く場合、私のアプローチの仕方は、やはり現実をできるだけリアルに書くことかな、と」

 児童福祉の問題と正面から向き合うことを決断し、三つの児童養護施設を取材した。各施設には親による虐待から保護された子どもたちもいたが、ここに来た理由は一様ではないと知った。

「みんな明るく屈託がなくて、素直でかわいらしい子どもたちばかりだったんです。そこでふっと、ある施設の職員の方に〝子どもたちがこの施設に来る前に経験したことについてどう思いますか?〟と質問したんですね。すると、それまで普通に話してくださっていた施設の方が少し考えてから、〝よく生き延びてくれた、と〟というふうにおっしゃいました。その言葉に、現実を突きつけられた感覚がありました」

 取材と並行しながら資料も読み進めていく過程で、児童養護施設で暮らす子どもたちの支援は原則一八歳まで、と定めた児童福祉法に強い疑問を抱いたという。

「〝生き延びて〟やって来た子どもたちであるにもかかわらず、高校卒業のタイミングで施設を出なければいけない。その年齢で後ろ盾のないまま社会に出ていかなければいけないし、もしも大学受験に挑んで失敗してしまったら浪人することもできないと聞きました。子どもたちの人生の選択肢を狭める一八歳というタイムリミットは、変えていくべきではないか。児童養護施設の現実やタイムリミットの存在を、小説を通して伝えることができたらと思いました」

知らず知らずのうちに子どもの目を塞いでいる

 主人公である高校二年生のななみは、頼れる家族をなくしてしまい、五年前から児童養護施設で暮らしている。高校のダンス部仲間の三人のうち、えみきょんだけはそのことを知っているが、他の二人には伝えていない。四四人が生活する「寮」の門限は厳しく、夜九時以降はスマホを使うことができない。もどかしく感じている点は多々あるが、ななみは職員からの信頼も厚く、寮の子どもたちの面倒をよく見る「いい子」だ。

「『寮』の子どもたちの中には、保護された時に体中が虫に刺された痕ばかりだったという子や、アルバイトで稼いだお金を母親に全部盗まれてしまったという子もいます。そうしたエピソードは取材で実際に聞いたお話の延長として書いていったものです。一方で、児童養護施設で暮らす子どもたちは必ずしも、大人から犯罪行為を受けてやって来たわけではないんですよね。児童養護施設の日常をなるべくフラットに描きたいと考えていくうちに、自分もいっぱいいっぱいではあるのだけれども、自分の問題だけでなく周囲にも目を配ることができる、ななみという主人公が生まれました」

 とはいえ、ななみの内側は焦りや苛立ち、職員をはじめとする大人たちへの怒りが波打っている。

「ななみは基本的には正義感があって前向きで、自分の時間を削ってでも寮の子たちに勉強を教えてあげるような子です。一方で、ななみは自分でも後で反省するぐらい意地悪なことを考えてしまったりするし、養護施設の子どもを雑に扱って傷つけたりしてしまうこともある。よく〝人は裏表があるもの〟と言われますが、人は裏表どころか多面体のようにたくさんの姿があって、その全部を集めたものがななみなんです。そうした感覚は、全ての登場人物に対して持つよう心がけています」

 だからなのだろう、児童養護施設の子どもたち一人一人の個性がひしひしと伝わってくる。寮の構造描写も明確で、子どもたちの動きが手に取るように分かる。

「コの字型の建物で、一階、二階、三階の部屋分けと、洗濯機の置いてある場所はここで、ご飯を食べる場所やお風呂はここ、というふうに図面を最初に書きました。ストーリーはほぼ何も決めず、登場人物たちが関係を結んでいく様子を追いかけるようにして書いていくやり方だったので、舞台となる場所の構造などはしっかり把握しておきたかったんです」

 ななみはダンス部で最後の学園祭に臨み、初めての恋人ができ、大学受験も近づく。そうした全ての体験の裏に、児童養護施設で暮らす子どもゆえの「一八歳のタイムリミット」への焦燥感が横たわる。また、ななみは母の代わりに自分を育ててくれた祖母から、「馬鹿にされちゃアいけない」「誰にも負けちゃアいけない」、だから「医者になれ」と言われ続けてきた。そのことが、将来への想像力を規定してしまっている。

「子どもは、家族から言われたことに口では反発したりしながらも、意見に沿ってしまうことが往々にしてあると思うんです。知らず知らずのうちに言葉で子どもの目を塞いだりしてはいないか、自分自身に問いながら書き進めていきました」

置かれた環境に左右される子ども

 本作は児童養護施設における生活のディテールを、そこで暮らす子どもの目線から、センセーショナルな事件を取り入れることなく抑えた筆致で描いた小説だ。高校二年生から高校三年生という多感な年頃を生きるヒロインが、日々くだす選択を追いかける青春小説という側面もある。そして、そこには寮の職員や学校の教師、家族といった大人たちの存在もまた色濃く書き込まれている。

「私はこれまで大人が主人公の小説を書いてきましたが、最近は子どもが主人公になることが多いです。子ども特有の考え方や見方を通すことで、大人の読者の方が世界をもっと自由に捉えられるようになる、もしくは〝自分も昔はこういう感じだった〟と懐かしむような書き方をしたいという気持ちがあります。でも、私は子どもを書いている時も、大人のことを書いているつもりなんですよね。今回もななみの置かれている状況を通して、周りの大人たち、ひいてはこの社会を形成している全ての大人たちについて書いているんです」

 子どもと大人の最も大きな違いは何なのだろう。

「大人が経験していくことって、年齢とともに自分の選択の結果である場合が増えていくと思うんです。でも、子どもの場合は、置かれた環境にほぼ全て左右されてしまう。厳しい環境に置かれているということなど想像しないまま結果だけを見て、子どもたちにすら〝自己責任〟という言葉の刃をぶつける今の社会は、恐ろしいと思います」

 大人たちは、子どもたちに何ができるのか? 小説の終盤、ななみが親友と将来について語り合いながら、「いい大人になりたい」と漏らす。「いい大人が増えれば、困らない子どもも増えるっていう、単純な原理。でも、本当はそれが世界でいちばん大事なことだと思う」。この場面を書く直前に、思いついたセリフだったという。

「後になって気づいたんですが、ななみは『いい親』とは言っていないんですよね。そこがすごく重要なんです。自分に子どもはいないからとか、自分の子育てはもう終わったからということではなく、あらゆる大人たちが、あらゆる子どもたちに対して『いい大人』になることで、社会が変わると思うんです」


ななみの海

双葉社

ダンス部で汗を流し、放課後はバイトに勤しむななみには、友人に明かしていないことがあった。早くに両親と死別し、「寮」と呼ばれる児童養護施設で過ごしていたのだ。祖母から聞かされた「馬鹿にされるな」という言葉を胸に、医学部進学を目指すも、受験が近づくにつれ、日々にさざ波が立っていく。中学受験頻出作家としても注目される著者の青春エール小説!


朝比奈あすか(あさひな・あすか)
1976年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。2000年、ノンフィクション『光さす故郷へ』を刊行。06年、群像新人文学賞受賞作を表題作とした『憂鬱なハスビーン』で小説家としてデビュー。その他の著書に『彼女のしあわせ』『憧れの女の子』『人間タワー』『人生のピース』『君たちは今が世界』『翼の翼』など多数。

(文・取材/吉田大助 写真提供/藤岡雅樹)
〈「STORY BOX」2022年5月号掲載〉

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