「推してけ! 推してけ!」第18回 ◆『百年厨房』(村崎なぎこ・著)

「推してけ! 推してけ!」第18回 ◆『百年厨房』(村崎なぎこ・著)

評者=植野広生 
(「dancyu」編集長)

時代を超えて、食がみんなを笑顔にする


 栃木県宇都宮市の北部に位置する大谷という町が舞台だ。市役所職員である主人公の大輔は、過去のトラウマから人と食事をすることを避け、一人で静かに暮らしていた。しかし、宝塚系の派手やかな友人の篠原、隣家のヨシエ婆、さらには大正時代からタイムスリップした女中のアヤ、突然面倒を見ることになった妹の娘ルナと四人の女性が大輔の平穏な暮らしを掻き乱すことになる。

 これだけ読むと、破天荒なストーリーを想像されるかもしれないが、この小説のベースにあるのは風土、家族の絆、そして食の力、という本来日常にあるべき風景だ。

 実は、大谷には僕の母親の実家があった。帝国ホテルなどの建築物に用いられた(建築家フランク・ロイド・ライトが好んで使った)大谷石の産地、かつては大谷石がすべての町であった。祖父も採石場で働いていたし、家の裏には大谷石を運ぶためのトロッコの引き込み線も残っていた。夏休みなどに遊びに行くと、祖父は深く掘られた穴が見える小高い裏山に連れて行ってくれたり、大谷石の端材でカエルの作り方を教えてくれた(「無事にカエル」という意味の縁起物として、大谷石のカエルは名物であり、いまも土産物店で売られている)。

 祖父母が亡くなってからは縁遠い場所になってしまったが、先日、ふとしたきっかけで大谷を訪れた。約三十年ぶりに見た光景は、微かな思い出が蘇るところもあれば、まったく新しい景色になっているところもあり、記憶がまだらにタイムスリップするような不思議な感覚であった。

 これは、大輔が見た大谷の風景と重なる。僕が子供の頃、次々と山が削られ、深い穴が掘られ、大谷石を運ぶダンプが土埃を巻き上げながら疾走する様子に恐怖を感じたし、「大谷の良さは分からない──」という大輔のつぶやきも理解できた。

 しかし、さまざまな〝事件〟に巻き込まれ、時代を超える体験をしたことで、実は大谷の自然が素晴らしいものであること、進化をしていること、そのうえで人々が暮らしを送っていることに気付いていく。

 そこに気付いたのは大輔自身の体験だけによるものではない。みんなが一緒にいて少しずつでも本音を吐き出し合うことで、〝家族〟という結びつきができ、いろいろなものから救ってくれる。それが大輔の心を溶かし、前向きな気持ちを引き出してくれたのだ。

 そのきっかけは食であった。冷やしコーヒー、壺飯、じんごろう焼き、源氏飯、れもんミルク、焼き柿、ベーキャップル……時代の流れとともに消えていった料理をアヤが再現したことで、古くて新しい味に感動し、食べる喜びを覚える。「効率のよい食事」を食哲学としていた大輔が、食事の幸せに目覚め、料理をつくる楽しみまで得てしまうのだ。

 大谷という小さなエリアが舞台ではあるが、実は日本のどこにでもある日常の暮らしの変化への不安と希望を示唆している。自然環境が損なわれているが、しかしそこに住む人々の努力や自然自体の力によって取り戻せる可能性があること。家族のつながりが薄弱になり、自分だけの世界に籠る人が増えているが、しかし人の結びつきはなによりも強いこと。どこでも同じようなものを食べられるという便利な時代になったが、しかし土地に伝わる料理や食材の素晴らしさは生きる力になること。日本には素晴らしい自然や文化があり、どんな時代でも食がみんなを笑顔にするということを。

 グルメ雑誌ではなく、食いしん坊雑誌をうたう編集者として、「食で日本を元気に、幸せにする」ことを目指しているが、この小説の作者も同じ思いを持つ食いしん坊なのだろう。さまざまな不安が渦巻く今の世の中、こうした食いしん坊が増えることで、世界に笑顔が広がり、平和が訪れるのを心から願っている。

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百年厨房

『百年厨房』
著/村崎なぎこ


植野広生(うえの・こうせい)
1962年栃木県生まれ。法政大学法学部卒業。経済誌などを経て、2001年プレジデント社入社、17年に編集長に就任。趣味は料理と音楽と言葉遊び。食と音楽のイベントを手掛けるほか、テレビ・ラジオなどでも幅広く活動。

〈「STORY BOX」2022年5月号掲載〉

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