翻訳者は語る 斎藤真理子さん

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第19回
翻訳者は語る 斎藤真理子さん

 韓国では百万部超、日本でも刊行三か月で十三万部突破の小説『82年生まれ、キム・ジヨン』。女性なら誰しも身に覚えのある日常的な差別や苦しみを主人公ジヨンの担当医の報告書という体裁で描き、大きな共感を呼んでいます。そのポテンシャルを、翻訳者の斎藤真理子さんは「わかっていなかった」と振り返ります。

〈さりげない著者の仕掛けとたくらみ〉

 最初はネットニュースで本書の存在を知り、その後新聞の「世界のベストセラー」欄の記事を読みました。韓国で女性から大きな支持を得ながらも、男性からは激しくディスられているとあり、興味が湧き原書を取り寄せて読みました。最初は変わった小説だなあと思いましたね。文芸と言うより半分自己啓発本というか。フェミニズムの入門書として有効ではと思い、出版社に企画を提案しました。

 とても淡々とした文体ですーっと読めてしまうため、翻訳作業を経て初めて気づいた、さりげない著者の仕掛けやたくらみがたくさんありました。例えば、ジヨンの外見の描写がほとんどないこと。企業のグループ面接の場面と、ジヨンの育児中に同僚が遊びに来る場面という人間関係の描写の中などに、わずかに記述されるだけです。非常に面白いと思い後々著者に尋ねると、やはり意図的でした。ジヨンの個性を消すことで、読者が自分を投影できるようにしたかったそうです。

 女性同士の関係は積極的に良く描かれているのに対して、恋愛の描写が少ない点も特徴的。ジヨンが結婚を決める場面も描かれず、急に両家の顔合わせの場面となるので翻訳中に「あれ、読み飛ばした?」と思ってしまいました(笑)。これも「性差別は愛だけでは乗り切れない」という、著者の問題意識なのでしょうね。

〈意訳はせずにかみ砕く〉

 医師の報告書という体裁を取ったのは、できるだけ「感情」を省きたかったことと、韓国の実際の統計上の数字を入れたかったからだそうです。翻訳文でも地の文では淡々としたトーンを生かしましたが、その分、会話文は生き生きとさせるように心がけました。怒ったり悔しがったりしている人の表情が手に取るようにわかるようにと、かなり推敲しましたね。

 韓国語と日本語は文法が近いので、逐語訳をしても意味が通るんです。それでも読めることは読めますが、とてもぎこちなくなってしまう。でも、意訳はせずに、心情が伝わるようどこまで訳文をかみ砕くかということが、韓日翻訳の大きな課題だと思います。

〈罵倒語の多い韓国語・少ない日本語〉

 一番苦労したのは、重要なキーワード「ママ虫」です。原語は「マムチュン」といい、育児中の母親を害虫のように揶揄する侮辱的な言葉。今回解説を書いていただいたジャーナリストの伊東順子さんに原稿をチェックしてもらうと、「ママ虫では可愛すぎる」と。そこからいろいろな訳語を考え、編集者ともたくさん案を出し合いました。「害」「母」「虫」を組み合わせてみたり、「ゴキブリ」から「ゴキママ」としてみたり。でも何を当てても不自然で、結局「ママ虫」に戻りました。

 そもそも韓国語は罵倒語のバリエーションが豊富で表現も厳しいのに比べ、日本語は罵倒語が少なく、「お笑い」に寄っちゃう。原文のニュアンスを的確に表す言葉を探すのにはいつも苦労します。

〈読者が見えていなかった〉

 著者は韓国でここまで売れると思っていなかったそうですが、私も日本でこんなに売れると思っておらず、改めて読者が見えていなかったことを痛感しました。

 出版前は、日本の読者から「ジヨンが辛い思いをするのは韓国の後進性によるもの」と対岸の火事に思われるのでは、という懸念があったんです。確かに子どもの頃の環境は日本の状況と開きがありますが、大人になるにつれ韓国社会が急激に進歩し、日本の女性を取りまく環境と変わらなくなってきます。

 日本でも医大入試の差別問題が表面化したことなどで、蓋をされてきた女性の怒りや不満が噴出しました。だからこそ読者がここまで共感し、直ちに反応してくれたのだと思います。私自身、以前企業勤めをしていましたが、ここに描かれるような差別を仕方のないこととして受け流してきた世代です。当時は、本作の登場人物のような効率重視の男性視点になっていました。今振り返ると「ダメダメだったな」と反省しています(笑)。

〈困難を乗り越える生命力〉

 韓国文学の魅力を一言で表現すると、生命力の強さでしょうか。植民地化や戦争、経済危機など、足下の揺らぐ経験を何度もしながら乗り越えてきた足腰の強さを感じます。極端に悲惨なことも表出して文章にできるバイタリティ、救いのない結末にも耐えうる体力には圧倒されます。力のある女性作家も次々に現れているので、注目していただきたいです。

斎藤真理子(さいとう・まりこ)

訳書にパク・ミンギュ『カステラ』(共訳、第一回日本翻訳大賞受賞)、チョン・セラン『フィフティ・ピープル』、チョ・ナムジュ他『ヒョンナムオッパへ』他多数。

〈「STORY BOX」2019年5月号掲載〉
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