週末は書店へ行こう! 目利き書店員のブックガイド vol.171 紀伊國屋書店新宿本店 竹田勇生さん

目利き書店員のブックガイド 今週の担当 紀伊國屋書店新宿本店 竹田勇生さん

『富士山』書影

『富士山』
平野啓一郎
新潮社

 長く小説というものを読んできて、自分がどういうものを好ましく思うのか、そのことをよく考える。

 いかに文章として美しく、文章が唄っているか。それは私にとって最も重要な要素であろうことは間違いないが、これは敢えて小説に限定せずとも、詩であろうとエッセイであろうと評論であろうと、必要不可欠、唯一にして絶対の要素たり得る。

 では、小説だけに限定した場合はどうであろうか。文章表現は言うまでもないという前提をクリアした上で、何が私の心を捉えるのか。

 このような問いを想定したときに、私はこの『富士山』こそ、そのすべてに応えてくれているのではないかと、はたと思い至る。

 それは物語としての射程である。

 小説は無論虚構の上に成り立っているが、我々読者はしばしば、その最後の一行を読み終えたときに羨望に取り憑かれ、落胆したりする。物語の扉がゆっくりと閉まっていくのを見つめながら、やはり自分がその世界の住人ではなかったことを自覚し、だからこそ面白いとか、感動したといった、他人事の感慨を抱く。そのことを否定はしないし、小説と自分の間に拳ひとつくらいの間を空けて、物語の全容をじっくり見聞するという楽しみ方もあるだろう。

 ただ、小説とはやはり現実を侵食し、覆い尽くすほどの嘘であって欲しいという願望が私の中には渦巻いていて、それが詰まり言うところの物語の射程なのである。

 この『富士山』という短編集はどの作品も契機こそ小さく、すべては物語の余白へと誘うために言葉を尽くしたような趣がある。その意味で「息吹」はこの1冊の心臓とも言える作品で、if の夢想と現実が並走する世界の話だ。但し、if の夢想とは決してSFのような想像世界という意味ではなく、例えばあなたが1歩を踏み出すとき、地面を蹴って、足が着地するまでの〝もしも〟を描いている。

「鏡と自画像」はよりそこに創作性を加えて、並行世界との均衡の臨界を探っているようにも思えるし、「富士山」は誰もが記憶にある「あのときこうしておけば」という最も身近な if を、『マチネの終わりに』を想起させるようなドラマティックさで描いている。「手先が器用」は「手先が器用である」という暗示を親子代々受け継いでいく話だが、「器用である」というのはあくまで暗示で、実は「器用ではない」或いは「器用という程ではない」というifをそこはかとなく内包している。その if を今度は現実の側から押し広げていき、「鏡と自画像」とは逆のやり方で並行世界を成立させている。最後の「ストレスリレー」がまた秀逸で、コロナという我々の記憶に新しい圧倒的な現実を背景として、いよいよこの並行世界は完成された。「コロナとは何だったのか」そういう問い立てで向こう数十年は論文がまとめられそうだが、コロナのもたらす if は我々の現実を侵食し続けた。その if の正体とは、結局ストレスという〝ままならなさ〟、すなわち if の産物に過ぎないのかもしれないという寓話的な種明かしに帰結するところに、私は小説としての圧倒的な格を見たように思う。

 私の if、そして、あなたの if もまた、この1冊に含まれはみ出す形で、確かに存在しているのだ。

 

あわせて読みたい本

『すべての、白いものたちの』書影

『すべての、白いものたちの』
ハン・ガン
訳/斎藤真理子
河出文庫

 先頃ノーベル文学賞を受賞されたハン・ガンによる短編集。タイトルどおり、白い物質をモチーフとして描かれる物語は小説でありながら、彼女の来歴たる詩人としての側面をも覗かせる短編集である。
 土が覆い隠した歴史を掘り起こすように、言葉に導かれるがまま、我々はそこに存在したであろう筈の痛みに触れる。ときに鋭く、ときに鈍く、けれど確かなメッセージとして、痛みは読むものに生命の在り処を教える。その度に何かを思い、考え、やがてはそのことすら忘れていく。どうしようもなく生きていることの無様さと誇らしさ。ハン・ガンの作品が恢復の文学と呼ばれる所以の象徴とも言うべき作品である。

 

おすすめの小学館文庫

『もうおうちへかえりましょう』書影

『もうおうちへかえりましょう』
穂村 弘
  
小学館文庫

 穂村弘は短歌界のトップランナーである。SNSで嬉々として歌集や歌そのものがアップされる昨今の短歌ブームとは一線を画し、10年以上も前から10冊売れたらヒットと言える短歌の棚にあって桁違いのセールスを積み上げてきた。そんな穂村さんの人気は歌集の刊行の間に挟まれるエッセイ集なくしてあり得ないと思っている。読むものを決して拒まず、かと言ってオープンマインドとは程遠い、少し自虐的な語りに共感する読者はこれからも跡を絶たないだろう。

  

竹田勇生(たけだ・ゆうき)
1980年生まれ。2024年6月より紀伊國屋書店新宿本店仕入課にて勤務。販売プロモーション担当。2023年本屋大賞受賞作、凪良ゆう『汝、星のごとく』紀伊國屋書店特装版を企画。


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