下村敦史さん『悲願花』

重い過去を背負った者たちの必然の物語を、
書いていたのだと思います。

 筆力のある若手のエンターテイメント作家は誰? と聞いたとき、出版関係者や本好きの読者の間では、まず下村敦史さんの名前が挙げられます。江戸川乱歩賞でデビュー後、ハイペースで新作を発表。さまざまな社会問題をテーマに、緊張感あふれる人間ドラマを描き、数々のミステリランキングに選ばれるなど、評価を上げています。最新作『悲願花』は、一家心中で生き残った女性たちの交錯という、重いテーマを取り上げています。
 各社からの執筆依頼で引っぱりだこの下村さん。最新作にこめた思いを、詳しく聞きました。

下村敦史さん『悲願花』

初めてラストを決めずに書き始めた

きらら……新作『悲願花』を、面白く読ませていただきました。下村さんの小説では初の女性が主人公のほか、これまでとは違うアプローチを随所に感じました。

下村……ありがとうございます。『悲願花』を書くきっかけは、小学館の担当編集者さんでした。彼女が産休明けの直後、「下村さん。児童虐待とシングルファーザーの物語を書きませんか?」と言われました。産休明けに、すごいテーマを提案するなぁと驚きましたが、興味を引かれたので、構想を練っていきました。
「重い過去を背負っている主人公の、その後の人生を描いた物語が読者の心をつかみます」という意見もあり、一家心中の生き残りという設定が出てきました。
紆余曲折を経て、シングルファーザーの話ではなく、子どもの頃に一家心中で生き残った女性と、一家心中で自分の子どもを死なせてしまった元服役囚の女性の、ふたりの女性が出会う物語にしようと決めました。

きらら……物語の全体像も決まったのですか?

下村……いえ、ラストがどうなるかを決めずに、書きだしていきました。12作目の小説で初めての試みでした。
デビューする前は、プロットを綿密に組み立てて書いていました。章ごとに何が起きるか、ラストまできっちり考えていました。まず受賞しないといけないので、どれだけプロットを練っても、足りないと思っていたのでしょう。少しでも手を抜いたら、受賞には届かないという不安から、プロットづくりには手を掛けていました。
デビューしてからは、作品を積み重ねてきた経験や、編集者の「いきましょう!」の後押しで、そこまできっちりとプロットを練りこまなくても大丈夫になりました。最低限、最初と終わりを決めていれば何とか書いていけたのです。
しかし今回は、初めの設定だけで、本当に終わりをどうするか、まったく考えていませんでした。極端な話、ハッピーエンドかそうじゃないのかも、わからなかったのです。
打ち合わせの段階で決まった、違う境遇の女性ふたりが出会うまでをとにかく書いて、そこからは手探りでいこうと覚悟して臨みました。

登場人物の気持ちに入りこむ

きらら……物語の中心となるヒロインは、町工場に勤めるアラサーの幸子です。彼女は小5のときに一家心中で両親と妹と弟を亡くしました。心の傷を抱えたまま大人になり、あるとき偶然、育児疲れの果てにわが子たちを死なせた女性・雪絵と出会います。幸子は雪絵に自分から接近しますが、なぜだったのでしょう?

下村……彼女たちを引き寄せたのは、彼岸花が咲いている墓地の空間が持つ何らかの力だったのかもしれません。理屈の通った感情ではなかったでしょう。あの墓地のシーンは、特に気持ちをこめて、印象的に描きました。

きらら……幸子と雪絵が出会ってからの展開には、強く引きこまれました。重い過去を背負った同士が交流するなか、それぞれの己の内面に深く入りこんでいく、不思議に引かれ合う関係を築いているようでした。

下村……最初の時点では、ふたりが出会うところまでしか、物語は考えていませんでした。しかし彼女たちが出会ってから、人物像が僕のなかでより深まり、どのように幸子と雪絵が関わっていくのか見えてきたような気がしました。
ふたりが一緒に何らかの犯罪をおかすのか、誰かを助けようとするのか、いくつか選択は考えられました。でも具体的にどう進めていけばいいのか、わからない。手探り状態は続いていたのですが、雪絵のある決断を前に、幸子が動けなくなるというシーンのイメージは持っていました。

下村敦史さん

きらら……あのシーンは、重い過去を引きずっている人間の本質が、立ち現れた瞬間だったと思います。とても心打たれました。

下村……物語を追っていくというより、登場人物に入りこんで、次は何をするのか追っていくような感覚で書いていました。僕自身が入りこめた、久しぶりの作品です。
僕は執筆では基本的に、多くの資料を調べます。『闇に香る嘘』も『黙過』も、巻末に参考文献をたくさん並べています。腎臓移植や中国残留孤児、移植手術など専門分野を扱うと、参考文献の蘊蓄などが、読者の興味を引ける強い武器になるのです。でも『悲願花』は、そういう武器に極力、頼らずに書かなければいけない小説でした。僕自身が考えている人間観をもとに、登場人物に入りこみ、彼らの内面を掘り下げていくしか、先に進めないと思いました。
手探りで書き進めるのは挑戦でもありましたが、それはそれで読者の心をつかむ取り組みとして、うまくいったと思います。日本推理作家協会賞の短編賞候補になった『死は朝、羽ばたく』も、死刑囚の感情の中に入りこんで書けました。あと山岳ミステリの『失踪者』です。
今回、登場人物に入りこめた度合いの高さは『失踪者』以来です。またひとつ、貴重な経験になりました。

必然的に過去から人物が現れた

きらら……物語の中盤、金融業者の郷田が登場します。郷田は借金の取り立てで、幸子の両親を追いこみ、一家心中の原因をつくった男です。郷田の登場は予定されていたのですか?

下村……いえ。それも手探りのなかでの、ひらめきでした。実は幸子が雪絵の、ある決断に接した後、物語が止まってしまったのです。目的というか、登場人物が動く動機が見当たらなくなりました。幸子と雪絵が今後、何をしていくんだろう? どうすればドラマが生まれるんだろう……? と考えこんでいました。
そこで過去の悲劇に関わった借金取りが、再び現れるという、ひらめきが降りてきました。
郷田が登場したことで、幸子の方に、大きな動きが生まれました。郷田を恨み、本当に復讐を考えるのか。あるいは雪絵と一緒に、郷田に何かを仕掛けようとするのか。進むべき、いくつかの次の展開を思いついたのです。
結果、ああいう結末に落ち着きました。この物語において、腑に落ちる幸子と郷田の関係を描けたと思います。

きらら……非常に複雑ですが、いろんな意味で納得のゆく、両者の関係でした。

下村……実は最初の設定を決めるとき、借金取りの男が出る場面を考えていました。それを思い出して、幸子の動きを引き出すひらめきに、つながりました。ひらめきではあったのですが、郷田は必然的に現れた人物といえるかもしれません。過去からやって来たというか、登場はしていなかったけれど幸子の人生には、ずっと彼は存在していたのでしょう。
郷田と同じく中盤に出てくる、雪絵にとって重要な人物も、そうだと思います。幸子たちは過去に関わった人物と向き合わざるをえず、満たされない自責の念に苦しみ続けるしかない。どうしたって過去からは、逃げられないのです。手探りでしたが、重い過去を背負った者たちの必然の物語を、書いていたのだと思います。

人間社会の多面性を正面から書きたい

きらら……『悲願花』は被害者と加害者を深く描きつつ、ある人物の隠された告白で、その関係が反転する構造にも言及しています。下村さんの社会観がうかがわれるようです。

下村……最近のネットニュースを見ていると、被害者と加害者の関係が決めつけられて、固定されたまま論じられている様子が目立ちます。けれど、それらすべてが果たして百パーセントの加害者や百パーセントの被害者なのだろうか、という疑問は持っています。二元論で語れるほど、人間はシンプルではありません。被害者に見えていた人も、背景なり事情を考察していくと、加害者の側面も出てくると思います。もちろんいじめなど、被害者は被害者で、「そんな仕打ちを受ける理由がある」という理屈で責めてしまうのは危険です。
僕が言いたいのは、物事を簡単に二分してはいけないということ。被害者は擁護して、加害者は一方的に責めてもいい……ネットでよく見られる構図ですよね。でも、そんな簡単に二分してもいいのだろうか? 見方によっては、入れ替わっている可能性もあるのじゃないか? という視点は、失ってはいけないと思います。『悲願花』では、そんな人間社会の多面性を、正面から書いてみたい気持ちはありました。

きらら……勇気のいることではないでしょうか。被害者もときには加害者だという提示は、批判的な意見も出てくるかもしれないです。

下村……僕の小説は割と優等生的な評価をされていて、さほど否定的な意見は受けたことがありません。いいことかどうかは別にして、好き嫌いの分かれるタイプの小説を書かれる作家さんのように、賛否両論すべて引き受ける! というほどの覚悟は、特にしていないです。
けれど、言うべきことは言いたいと思っていました。正義とか、正論という言葉が僕は苦手です。正義の前では、違う意見は自動的に悪になり、悪を叩く動きには歯止めがかかりません。それって、本当に正義なの? と思う。正義と悪、加害者と被害者など、レッテルを貼ってしまうと、もう役割が決まって、変えられないんですね。でも役割なんて、結局は決めつけで、本質ではない。みんなが正しいと思いこんでいるのは、単なるレッテルじゃないの? という問いで世間をえぐっていきたい気持ちは、『悲願花』にも色濃く出ています。
すっきりしたハッピーエンドではないかもしれませんが、この物語での最善の結末は迎えられました。幸子にとっては、雪絵と出会えたこと、それからの出来事はすべて、救いに繋がったと思います。

(構成/浅野智哉 撮影/浅野 剛)
〈「きらら」2019年1月号掲載〉

下村敦史(しもむら・あつし)
1981年京都生まれ。2014年『闇に香る嘘』で第60回江戸川乱歩賞受賞。その後、意欲的に新作を刊行。『生還者』は第69回日本推理作家協会賞の長編及び連作短編賞部門の候補になる。他の著書に『難民調査官』シリーズ、『叛徒』『真実の檻』『失踪者』『告白の余白』『緑の窓口 樹木トラブル解決します』『サハラの薔薇』『黙過』など。ミステリ仕立てのエンターテイメント小説の新たな旗手として、注目を集める若手作家。


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