私の本 第2回 福岡伸一さん ▶︎▷03
大好評の連載「私の本」は、あらゆるジャンルでご活躍されている方々に、「この本のおかげで、いまの私がある」をテーマにお話を伺います。
幼い頃から「オタク」だったという生物学者の福岡伸一さん。現在はあの著名な画家・フェルメールへ、オタク的な関心がむいているそうです。科学と芸術――福岡さんが見出した両者の共通点とは?
顕微鏡の祖からフェルメールへ
顕微鏡を自作したレーウェンフックは、オランダのデルフトという街に1632年に生を受けました。
じつはこの年の同じ月、しかもレーウェンフックの家から100mも離れていないところに、画家フェルメールが誕生します。
幼い頃の私はレーウェンフックのことを調べるうちに、フェルメールの存在を知りましたが、ただずっと昆虫に夢中だったので、当時は興味を持つまでにはいたりませんでした。
再びフェルメールと出逢うのは、社会人になってからのことです。
大学院を卒業して、20代後半で働く場所を探した結果、アメリカのロックフェラー研究所に拾ってもらって、ニューヨークに在住しました。
そのロックフェラー研究所で、ポスドク(博士研究員)という、一人前の研究者になるための修行期間を過ごしたのですが、このポスドクというのは、いまのことばでいうところのブラック企業に入ったようなもので、わずかな給料で、長時間、ボロ雑巾のように働かされました。
生物研究という自分の好きなことをやっていたので、成果を出さねばならないというプレッシャーはあるものの、精神的苦痛はありませんでしたが。
自由の女神像も、エンパイアステートビルも見ずに、研究所と家のあいだを往復していたけれど、ニューヨークは道が碁盤目状に通っているので、毎日違う道を歩くというのだけが唯一の楽しみでした。
ニューヨークは、高層ビルばかりの垂直都市ですが、ある時、低層の白亜の豪邸が目に入りました。そこは現在はフリック・コレクションという個人美術館になっていて、なかには本物のフェルメールの絵が3つも所有されていたのです。
あ、これがフェルメールかと、その時に幼い頃の記憶が蘇ってきました。改めて見ると絵画は意外に小さく、青がとても美しいと感じました。
フェルメールの科学者的マインド
フェルメールの絵には、自己主張というものがほとんどありません。
たとえばピカソやゴッホのように「これが自分の解釈する世界だ」などという主張はまったくないんです。
むしろ客観的かつ公平に、科学者的なマインドで世界を描きます。フェルメールは三次元の構図を、二次元の平面に正確に映し出した人なのです。
私は、レーウェンフックがフェルメールに、レンズの作用や針穴写真機を教えて、それによってあの精緻で静謐な絵が完成したのだと想像しています。レーウェンフックとフェルメールが友人だったという記録は、どこにもないんですけれどね。
フェルメールへの理解を深めるための本も、何冊か読みました。日本のフェルメール論の決定版である小林頼子の『フェルメール論 神話解体の試み』、さらにはロンドン大学建築学の教授フィリップ・ステッドマンによる『フェルメールのカメラ 光と空間の謎を解く』などです。
フェルメールは43歳の若さで死んだので、その絵は37枚しか残っていません。この37というのは素数であり、大変にオタク的なナンバーなんです。37を逆向きに73にしても素数で、こういう素数中の素数は、私にとってはもうたまらなく魅力的です。
そんなこともあって、絵が37枚しかないなら、もうコンプリートするしかないと決心したわけです。
展覧会で絵画が東京に来た時に見たとしても、それは1回とは数えない。
現地に行き、その土地ならではの風や光を感じながら、フェルメールの絵がどうやってここに来たかという時間軸を感じて初めて、見たということにしよう、と決めています。
科学も芸術も、同じ問いをしている
私の読書は、こうやってわらしべ長者的に、昆虫からレーウェンフック、フェルメールへという寄り道で成立しています。
小学生の頃に図書館の書庫を歩いたのと同じように、道草をしながら時間軸を繋ぎ、自分なりの読書の道程を作ってきたのです。
そうやって自分のなかに読書のストーリーを探せば探すほどわかったことは、科学も数学も、哲学も文学も、じつはみな同じ問いをしているということでした。
表現方法や言葉の解像度などはもちろん違いますが、結局は、世界の成り立ちはどうなっているか、人間存在とはなにか、生命の起源はどこから来たのか、人間はどうして家族を捨てられないのか、未来はどのようになるのかといった問いを、科学も芸術もしているのです。
しかし現在は、文系と理系というのが分化され過ぎてしまって、それぞれ狭い分野で研究しています。
でも17世紀にまで遡ってみると、レーウェンフックもフェルメールも同じように、世界をできる限りありのままに捉えたいと希求していたとわかります。
レーウェンフックは顕微鏡でミクロの世界を覗いたし、フェルメールは三次元を二次元に置き換えて、写真がまだない時代に、移ろう一瞬の光を捉えようとしたわけです。
それは現代でいえば、フォトグラファーがスナップを撮るのとまったく同じ感覚です。
さらには、ライプニッツやニュートンが微分という数学の手法を編み出したのも、絶えまなく動く世界の一瞬を捉えたいと思ったからでしょう。ライプニッツは数学者であると同時に、哲学者でもありました。
そう考えると科学と芸術は、17世紀においてはとても近い領域にあったのです。
作家を時間軸に沿って読む
小説もまったく同じです。なぜ小説が繰り返し書かれるのか、村上春樹はなぜいつも同じ穴ばかり掘るのかというと、世界とはなにかを追求しようと、小説のなかで繰り返し実験しているからです。
それは、科学者とまったく同じ視点です。
私は村上春樹とは同世代で、大学に入学した頃に作家デビューしたため気になる存在ということもあり、リアルタイムで読み続けています。
村上春樹も『ノルウェイの森』や『1Q84』など話題のものだけ手に取るのではなく、デビュー小説から順番に、書かれた時間軸に合わせて読んでいくと別のものが見えてきます。
村上春樹は、政治の季節に生まれた全共闘世代です。
でも、そういうことにはコミットしないのがかっこいい、というスタンスを取り続けてきました。
そうでありながら、オウム真理教による地下鉄サリン事件や東日本大震災が起きると、それではだめだ、と感じるようになっていく。
そして政治や社会とコミットする方法を模索していきます。その道程にある小説が『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』や『ねじまき鳥クロニクル』なわけです。
乱読もいいけれど、好きな作家が見つかったら、発表された時間軸に沿って読んでみると、その作家の格闘や模索というのがよくわかります。
理系から文系へ「文転」、分野を超えた研究へ
私は科学から文学まで、さまざまな分野の本を読んでいますが、決して網羅的というわけではありません。
絵画ならフェルメールだけだし、音楽なら好きなバッハに関する書物だけです。
隈研吾の『負ける建築』や『自然な建築』、伊東豊雄の『あの日からの建築』など、建築に関する本も読みますが、それは生物と繋がりがあったからなんです。
隈研吾も伊東豊雄も、建築物は人間が設計するものだからより生命的、有機的にしたいと語ります。そういった主張を読みながら、でもそれは大変に難しいことだろうと考えたりするのです。
もしも建築家に「魚をつくってください」と頼んだとしたら、「わかりました」と言って、まず背骨をぴっと引くことでしょう。
この軸を通すというのが、建築家にとっては大事な一歩だからです。
でも生命は、そんなふうにはできていません。最初はぬるぬる、やわやわした1個の細胞が誕生し、それが少しずつ増殖してきた。
背骨ができたのは、一番最後なのです。身体を大型化するにはしっかりした骨格をつくったほうがいいだろうと、細胞同士が押し合い、へし合いして、真んなかに背骨という硬いものを形づくったわけです。
背骨が誕生したのはわずか数億年前のことで、生命全体の歴史からいえば、ごく最近のことです。
こんなふうに私の読書も、自分の興味が細胞分裂するように広がりを見せてきました。
私は現在、青山学院大学総合文化政策学部の教授という立場にありますが、じつは以前は、同大学の理工学部化学・生命科学科の教授だったんです。
理系の学生が、進路に迷って文系に行くことをよく「文転」といいますが、先生が理系から文系へと学部を変えたのは初のケースと、そうよく驚かれます。
でも私にとってそれは、自然なことでした。科学と芸術を融合させて、生命についてより広い視野で考えたいと思い、学部を移籍させてもらったのです。
今後も生命とは何かというテーマを、統合的に研究していきたいとそう思っています。
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