◎編集者コラム◎ 『駆け込み船宿帖 ぬくもり湯やっこ』澤見 彰
◎編集者コラム◎
『駆け込み船宿帖 ぬくもり湯やっこ』澤見 彰
わっちの国じゃ、「腹が減っては戦はできぬ」と言うけどよ、遥か遠くのあっちの国じゃ、「空きっ腹の人間、聞く耳持たぬ」と言うらしいね。
え、どこのあっちの国かって? そりゃ、あれよ、たしかダウツってぇ国だったかな? まぁ、細かいことは言いなさんな。
でね、どんなにえらい坊さんのありがてぇ説法でも、そりゃあ腹がぺこぺことくりゃ、耳に入らねぇのは当たり前。せいぜい入ってくるのは、日蓮さまのお話くらいのもんよ。なにしろ、「ほっけ、ほっけ」というくらいだからね。おっと、日蓮さまに失礼だって? こりゃ失礼、お粗末さまでした。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。
でよ、そんな今にも日干しで死にそうな客に、わざわざお節介を焼いて、旨い飯を食わせる船宿があるって知ってるかい?
おうよ、それがあるっていうから世の中捨てたもんじゃねぇわさ。江戸は深川佐賀町に建つ「山谷屋」っていう船宿がそれよ。
切り盛りしているのは女主で、志津ってのが、なんと十八っていうじゃないの。なんともいいお年頃の娘さんじゃないか、へへ……痛ててててっ、なにすんだい!
あったく。でな、捨蔵ってぇ大叔父も手伝ってるようなんだがよ、船がたった一艘しかねぇんじゃあ、内証はたかが知れてるわな。なにしろ、船頭の百助は二十歳っていうから、食うわ飲むわの男真っ盛りだろ? 金なんかいくらあっても足りやしねぇ。
その貧乏船宿がよ、暮らしに困って駆け込んできた客に、女主手作りの極上料理を腹いっぱい食わせたうえに、揉め事まで解決しちまうっていうんだぜ。まったく酔狂じゃねぇか。
まあまあ、腹と背中がくっついて死にそうになってるところに、美味い手料理なんか振る舞われたら、誰だって素直になるってもんよ。お前さんの下手な噺だって、耳にタコができるくらい入ってくらぁな。
でもよ、なんでも船宿を見てきた野郎の言うことにゃ、微笑をたやさない女主の童顔がお地蔵さんを思わせるみたいでな。案外料理やら揉め事解決じゃなくて、その笑顔がお客を救ってるんじゃねぇのかな、なんて思ったりしてね……。
おっとすまねぇ、柄でもねぇな。どうだい、これからちょっと覗いてみねぇかい? え、どこを覗くのかって? そりゃ決まってるじゃねぇか、山谷屋だよ。俺もお前ぇも温かくなりに行こうじゃねぇか。
──『駆け込み船宿帖 ぬくもり湯やっこ』担当者より