ワクサカソウヘイ「アリクイと同じアリの夢を見たい」#06

06 クマがクマであるために
「動物園にいるクマではダメなの?」
そう尋ねられて、答えに詰まった。
動物園のクマでは、ダメなのだ。野生のクマでないと、絶対にダメなのだ。
その理由は、一言で説明できるものではない。このような厄介な問答は、許されることなら死んだふりでもして、やり過ごしたいところである。しかし相手は、私にじっと目を合わせてくる。ああ、逃げられない。
クマは、ヤバい。
野生のクマは、話にならないほどに、マジでヤバい。
それは私がここで強く注意喚起をする必要もないほどに、周知の事実であろう。
たとえばヒグマの生息密度が世界でもトップクラスである知床半島に赴くと、そこでは食堂の壁からパーキングエリアのトイレの中、ビジターセンターの案内板、遊歩道の入り口、果てはバスの車内にまで、ありとあらゆるところに「野生のヒグマに注意」の警告ポスターが貼られている。「出会わないためには音を出せ」「匂いの強いものは持ち歩くな」「ゴミは必ず密封して持ち帰れ」。それはまるで、クマという厄災を召喚しないために、この半島に張り巡らされた結界のようですらある。
わかっている。クマは、ヤバい。野生のクマは、絶対的に回避すべき存在だ。
なのに、クマに出会いたいと願っている自分がいる。
クマが危険な存在であることも、人間の力ではどうにもならない相手だということも、わかっている。
でも、それでも。
この世界の隙間から、不意に現れるクマ。それに偶然に、ばったりと、出会ってみたい。
私はその時、喫茶店にいた。そして友人を前にして、野生動物との遭遇とはなんとも面白いものである、という話を早口で語っていた。
これまで時間とお金と手段を費やして様々な野生動物と邂逅を果たしてきたわけだけれども、こればっかりはやめられないね。野生動物と突然に出くわすと、体も脳みそも痺れて、目の前にある現実がぶっ壊れるような感覚に襲われるんだ。合法的なトリップという感じかな。ああ、たまらないね。
そのうち、語りが加速度的に熱を帯び始め、私はタブーめいた願望を、つい告白してしまう。
まだ体験したことはないんだけどさ、きっと野生のクマと遭遇なんかしたら、稲妻に貫かれたようなトランス状態になっちゃうんじゃないかな。クマはほら、非合法的というか、禁じられた存在なわけだから。ああ、大きな声では言えないけど、クマに出会ってみたいなあ。
うっとりと秘密を明かしたその直後、友人から差し向けられた問いが、先ほどの「動物園にいるクマではダメなの?」であった。
それは素朴な疑問ではあったが、まったくもって正しい指摘でもあった。なんで、私は野生の動物にこだわるのか。なんで、動物園のクマではダメなのか。
宙をしばらく眺めてから、慎重に、このように答える。
自分はつまるところ、野生のクマに強烈な衝撃を求めているのだと思う。
そして、その衝撃によって、予定調和の世界から解放されたいのである。さらに言えば、その瞬間にしか存在しない陶酔を濃密に味わいたいのである。
いったい、なにをわけのわからないことを言っているのであろう。友人は眉をひそめる。まあ、そうだろう。野生のクマと遭遇することで、なぜ陶酔が味わえると思っているのか。不可解でしかない話だ。
しかし私は、野生のクマに遭遇したことで、得も言われぬ恍惚の沼に落ちてしまった人を知っている。
私の父である。
ある夏休み。小学四年生だった私を含む家族は、岩手県へとキャンプに訪れた。車で山道を抜けた先に広がる、青々とした草地。小鳥がさえずり、さらさらとした風が心地よく吹き抜けていく。遠くに見えるのは早池峰山。私たちの家族以外には、誰もいない。絶好のキャンプ地である。
トランクからせっせとテントやコンロを降ろして、木陰に一通りの設営を済ませると、父は「じゃあ、夕飯を釣ってくるから」と言って、車でひとり、山の奥へと消えていった。当時、父は渓流釣りを無二の趣味としていた。
残された私たちは、炭を熾したり米を炊いたりなどBBQの準備をしながら、イワナやヤマメを手にした父の戻りを待った。
しかし、陽が落ち切っても、父は帰ってこなかった。当時、携帯電話というものはまだ普及しておらず、私たちは父の安否に気を揉むことしかできなかった。
いよいよ夜が深まっていき、これはなにか父が事件に巻き込まれたのかもしれない、近くの集落まで歩いていって警察に連絡をするしかないのでは、と母が真っ青な顔で私に相談を始めたその時分に、ヘッドランプの光がこっちに向かってゆっくりと近づいてきた。それは父の乗った車で、ようやく私たちは胸を撫でおろした。
しかし、停まった車から父は降りてはこなかった。どこか取り乱した表情で、運転席の窓ガラスの向こうから、口をパクパクとさせてこちらになにごとかを伝えようとしている。両手を必死に広げて、なにかのサイズ感を表してもいる。なんだなんだ。規格外の大きさのイワナでも釣れて、興奮しているのか。
母が、「なに、どうしたの」と言いながら車のドアを開ける。すると父は、液体のようにどろりと運転席から地面へとなだれ落ちた。見るからに全身の力が抜けていた。そして寝そべったまま、私たちに渓流で起きたことを説明した。
「クマ、クマ、ツキノワグマ。オオキイ、トテモオオキイ。オソロシカッタ」
電報かよ、みたいな口調が、体験の衝撃度を物語っていた。父は釣りをしている最中に、野生のツキノワグマに遭遇してしまったのである。さっきの両手は、クマの顔の大きさを私たちに伝えようとしていたのだ。
お茶を飲み、ようやく落ち着きを取り戻した父は、その仔細を話し始めた。
釣り糸を川に浮かべながら、岩場の上に父は立っていた。釣果はなく、そろそろ日も暮れようとしている。もうキャンプ場に戻ろうかと、釣り糸を自分の手に戻した矢先、近くの笹がゴソゴソと揺れた。他の釣り人が現れたのか、と思って目を向けると、そこにずずっと、黒い塊が現れた。空気が変わり、辺りが一瞬、無音になった。あまりに突然のことで、それがクマであると認識するまで、しばらく時間がかかったという。釣りの最中の邪魔になると、熊鈴を付けたリュックは足元に置いてしまっていた。父は自身の痛恨のミスを悔いた。
クマは父の存在に気がつき、目を合わせてきた。父は体を硬直させた。そして激しく混乱する頭の中からなんとか意識をたぐり寄せ、「こういう時はどうすればいいんだっけ?」と自問した。死んだふり? 木に登る? それとも一目散に逃げる? 正解は「目を離さずにゆっくりと後退」であるわけだが、パニックに陥っていた父は、非常に見当違いの行動に出る。両方の握りこぶしで、自身の胸を太鼓のように強く連打したのだ。
ゴリラのドラミングである。
おそらくだが、父の沸きこぼれる頭の中では「黒い生き物→ゴリラ→警戒→ドラミング」という地獄の連想ゲームが行われてしまったのだろう。人間は窮地に追い込まれると、シナプスがアクロバティックな繋がり方をしてしまうものなのかもしれない。
そのツキノワグマは、父の様子を「なにこれ」といった感じでじっと眺めていたという。無我夢中のドラミングの音だけが、辺りに響き続ける。
それは永遠とも思える時間だった。
やがて、クマは小首を傾げるような仕草をひとつ見せてから、Uターンをして笹の中へと消えていった。父は、膝から下の感覚がなくなっていることに気がつき、その場にへたり込んだ。早くこの場から立ち去りたいが、全身が震えていて、這うことすら困難だった。何度も何度も深呼吸をして、なんとか人心地を取り戻してから、熊鈴をがむしゃらに鳴らしつつ、渓流の上に停めていた車へと父は舞い戻った。アクセルを踏むような力すら残っておらず、しばらくは運転席の上で呆然と過ごしたという。
私たちはその話を、焚火を囲みながら、冷や汗と共に聞いた。今日、もしかしたら私たちは家族をひとり、クマに奪われることになっていたかもしれないのだ。想像しただけでも恐ろしい。
ともかく、父は命拾いをした。
でも、野生のクマに遭遇してから、父の中のなにかが変わった。彼はそれからというもの、クマの話しかしない人になってしまったのである。
家族の団欒においても、親戚の集まりにおいても、果ては私の通う小学校のPTA会合の場においても、「クマに遭遇した時は怖かったなあ」と話を切り出し始める。何度も何度もその話を聞かされ、周囲は辟易しているというのに、それでもクマの話をやめようとはしない。
そして彼の書斎は、クマ関連の本で埋まっていった。休日のたびに登山用品店に出かけては、熊鈴やクマよけスプレーを物色するようにもなった。彼の頭の中は、クマに支配されていた。
父はクマによって奪われた正気を取り戻すために、クマの話を繰り言のようにしているのだと、当時の私は解釈していた。二度とクマに遭遇しないために、クマの生態を書物で調べ、クマをよけるためのアイテムを揃えているのだと、そう理解していた。
だが、いま思い返すと、クマとの遭遇を語る時の父の目は、爛々と光っていた。それはまるで、もう一度クマに会いたいという欲望を滲ませているようでもあった。
あれから三十年以上が経過したいまでは、さすがにかつてのクマ語りも落ち着いてはいるが、しかし実家に帰ってクマの話題を振ると、「いやあ、あの時は本当に怖かったなあ」と夢見心地の笑みをこぼす父がいる。
父はクマと遭遇したことで、人生最大級の恍惚を得たのではないか、と思う。それは、予定調和が破壊される瞬間にしか現れない、甘い眩暈だ。
父は生粋のサラリーマンで、絵に描いたような予定調和の世界を生きていた。
平日は、会社に出勤して、スケジュールにあるタスクをこなしていく。
会議、製造、販路拡大。その繰り返し。
そして休日は家族との外出や趣味の釣りなどで、先々の予定を埋めていた。
ルーティーンに次ぐ、ルーティーン。そこにクマの入り込む余地など、本来はないはずだった。
いや、父だけに限った話ではない。現代を生きる私たちのほとんどは、見事なまでに予定調和の世界を生きているのではないだろうか。
予定とは、意味であり、管理であり、安心である。
私たちは、パズルのように意味をはめ込み、カレンダーの上で自分を管理しながら、ぬるま湯の日々をこぼさぬように暮らしている。そうやって安心感を得ながら、野生のクマから遠く離れた地点で、のうのうと生きている。
それは一見すると、満ち足りた日々である。しかしよくよく見ると、それは私たちが生を生として全うする際に非常に重要なものが、圧倒的に欠けている日々であることがわかる。
欠けているもの。それは、「衝撃」である。
衝撃とは、無意味であり、遊びであり、破壊である。
そして破壊とは、創造である。
どういうことか。
たとえば、友人たちと酒を飲んでいる最中に、「こんど、BBQ大会をしよう!」などという話で盛り上がる。BBQは、どう考えても遊びであり、楽しいものだ。しかし、BBQの計画を立てている最中、なんだかだんだんとかったるくなり、当日を迎えようものなら参加することすら煩わしくなる。誰もが味わったことのあるに違いない、「飲み会の席で決まった遊びの予定、最終的には超だるい」あるあるである。
この事象がどうして発生するのか。それは、遊びの予定を立てた時点で、遊びの遊びたる部分が、消えてしまっているからである。
遊びは、無意味によって、遊びとなる。意味のない遊びこそが遊びであり、意味のある遊びはもはや遊びではない。そして意味は連なり続けると、私たちに息苦しさを与えてくるようになる。BBQ大会という遊びは予定によって意味化されてしまい、そして非日常性を失い、気だるい日常へとなり下がってしまうのだ。
で、逆に。
BBQ大会の当日、カーテンを開けると、豪雨が降っている。予期せぬ衝撃だ。
BBQ大会は中止との連絡が来る。予期せぬ破壊である。
その瞬間、なにも予定されていない一日が始まって、胸の騒ぐものがある。そこから本当の、無意味な遊びが始まる。お嬢さん、BBQの予定から、お逃げなさい。あらクマさん、ありがとう。
そうやって、私たちは予定調和から脱線することで、意味を無意味化させて、そこに現れた瞬間的にして非日常的な陶酔の中で息継ぎをして、生を生として鮮やかなものにリロードするのである。生を生として本質的なものへと再創造するのである。
クマとは、野生動物の中において、最も予定調和の外にいる存在なのではないか。
積極的に遭遇することを強く禁じられている動物であり、知床半島での観察ツアーも基本的には船に乗って海の沖合から遠くの岸辺にいるクマを見ることに限定されている。この世には野生動物と会うためのありとあらゆるネイチャーツアーが用意されているが、「クマと目の前で会える!」と謳ったツアーなど、聞いたことがない。
出会うことを予定できない。偶発的にしか遭遇できない。それが野生のクマなのである。自然下でばったり出くわしたら、なによりも衝撃度の高い動物だと言えるかもしれない。「クマ」と書いて、「衝撃」と読んでいいほどだ。
だから、動物園でクマを前にしても、それは実質的なクマとの出会いにはならない。動物園のクマは、そこにいることが予定されているクマであり、安全距離が設定されているクマであり、「衝撃」と読むことはできないクマだからだ。
童謡『森のくまさん』では、クマはお嬢さんに「お逃げなさい」と忠告し、その後にイヤリングの落とし物を届けにくる紳士であるわけだが、実際のクマはそんな事前アナウンスやアフターフォローを律儀に行うような存在ではない。こちらに声をかけることもなく、そして意味もなく、ただ、ぬっと「出てくる」のだ。
この予定調和に溢れた世界の裂け目から、突如として現れる衝撃。
意味を纏った世界の、その皮をべりっと剝ぎ取られたような、解放感と陶酔感。
あの時、父が味わったのはそのようなものだったのだと思う。
そして私は、同じようなものを体験したいと、秘かに願ってしまっているのである。
そして、ついにその日が来た。
私は、タイの山奥で、昆虫探索を楽しんでいた。
乱舞するチョウ、奇妙な姿をしたビワハゴロモ、常軌を逸したサイズのナナフシ。そこには日常では見ることのできない様々な昆虫の姿があり、目を楽しませてくれた。
ただ、私は少しだけ、鈍色の心地を抱いてもいた。
この昆虫探索には、目的があった。「新種の昆虫を見つけて、それに自分の名前を付ける」という目的である。それは子どもの頃からの夢でもあったのだが、ここに来るまでの間にそれは予定化され、意味化されていた。私は他の者によってすでに名前を付けられている虫たちを前にしながら、意味の森の中を彷徨っていた。目的は、疲れる。予定は、くたびれる。意味は、心を重くする。
成果は上がらず、ぐったりとした私は、山道の中にあるビジターセンターの横の東屋で休憩をすることにした。甘ったるいファンタに口をつけながら、ぼうっと山の景色を眺める。
するとその時、目の端になにかが映った。
黒くて、もぞもぞと動く、なにか。
大きな犬かな、と最初は思った。
しかし、違った。それは、マレーグマだった。野生のマレーグマが、私の目の前に出てきたのである。意味もなく、ぬっと。
それは、小型ながらも、こちらの身を硬直させるには十分な佇まいをしていた。なんのコミュニケーションも受け付けなさそうな、真っ黒な瞳。ヨダレをだらりと滴らせる、朱色に染まったベロ。指の先には、湾曲して尖る鎌のような爪が伸びている。
衝撃が背筋をぞくりと撫でる。私は膝を震わせながら、そのマレーグマが茂みへと消えていくまで、息を止め続ける。
ああ、これか。
これがあの時、父が味わったものなのか。
それを知った瞬間、私を取り巻いていた鈍色の重圧は、無効化された。のっぺりとした時間の流れは鮮やかさをもって息を吹き返した。
目的なんて、夢なんて、叶わなくていい。予定なんて、意味なんて、果たされなくていい。昆虫に名前を付けるだなんて、どうだっていい。
自分はいま、マレーグマを前にして、無上の陶酔を得ている。それだけでいい、これだけでいい。心の中で、激しくドラミングをする。このクマは、「クマ」と書いて、「純然たる衝撃」と読めるクマである。
クマは、予定して出会うものではない。不意に出会ってしまうものである。
それは、日常の構造を一瞬だけ断ち切る、野生からの密やかな介入だ。
私は今日も、あの衝撃の余韻の中で暮らしている。そして誰かに、クマのことを喋っている。クマは、マジでヤバい。
ワクサカソウヘイ
文筆家。1983年東京都生まれ。エッセイから小説、ルポ、脚本など、執筆活動は多岐にわたる。著書に『今日もひとり、ディズニーランドで』『夜の墓場で反省会』『男だけど、』『ふざける力』『出セイカツ記』など多数。また制作業や構成作家として多くの舞台やコントライブ、イベントにも携わっている。