横山秀夫さん『ノースライト』

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家を書いて、家族を書く
著者近影(写真)
横山秀夫さん『ノースライト』
イントロ

 警察小説の第一人者として知られる横山秀夫が、集大成と言える長編『64(ロクヨン)』以来、六年ぶりの新作長編で建築士を主人公に据えた。自他共に認める新境地はどのように開拓されたのか。改稿作業に六年もの歳月を費やした理由とは?

 

 警察官ではなく、建築士が主人公の物語に取り組んだきっかけは、一五年以上前まで遡る。

「二〇〇〇年くらいから三年半ほど、仕事部屋のマンションの一室から一歩も出ずに、ひたすら小説を書く生活が続いていました。そんな時に新潮社から『旅』という雑誌を復刊するので、長編を連載してほしいと言われたんです。とてもじゃないけど、新しい仕事なんて受けられる状況ではなかったんですが、その依頼に光を感じたんですよ。"ああ、俺も旅に出たい""今の状況から抜け出したい"という気持ちが旅という一語で引っ張り出されたんです」

 旅をするとは、今住んでいる場所から移動するということだ。旅について考察する過程で、家という存在や住むという行為について、改めて向き合うこととなった。

「人には生まれた時から家がある。生きていくうえで、人と住まいは切っても切り離せないものです。その人が住む空間をどう作っていくのか、建築という分野に興味が湧きました。私は自宅にも帰れず、ずっと仕事場にいたわけですが、忙しい時だけ滞在するつもりが、最後には住んでいるとしか言えなくなってしまいました。そんな感覚も作品に溶かし込んでみたかった」

 主人公は四五歳の一級建築士、青瀬稔だ。彼は事務所の同僚から「筋金入りのリアリスト」と評され、工務店の若社長からは「拘りのない建築士」と目されている。そんな青瀬が心機一転、情熱を燃やし、建築本にも採り上げられることとなった作品が、信濃追分に建てたY邸だった。しかし、四カ月前にクライアントに引き渡したY邸に、誰も住んでいないという噂が飛び込む。クライアントと連絡が取れないまま青瀬がY邸に足を踏み入れると、もぬけの殻だった──。

「私の小説はいつも、最初の段階で主人公に強い負荷をかけ、内面で沸き起こる感情の波が物語を推進させていく、という作り方をしています。今回は建築士が主人公ということで、彼にとって最も強い負荷は何だろう、言い換えるならば"建築士にとって最も起こってほしくないことは何か?"と考えた時に、自分が会心の作だと思っている家に、人が住んでいない光景が見えました」

 青瀬は日々の仕事をこなしながら、失踪したY邸のクライアント―吉野陶太の影を追い始める。手がかりは、二〇世紀前半に活動したドイツ人建築家ブルーノ・タウトの手によるものと思われる、Y邸にただひとつ置かれていた椅子だ。青瀬が「謎」の真相を探る道のりは、タウトが日本の建築工芸史に遺した功績を辿る旅とシンクロし、物語の熱量を高めていく。

「青瀬の合わせ鏡というか、感情を増幅させる装置として、同じ建築の分野で高みにいる人物を作品の背骨に据えたかったんですよ。ふと思ったのが、群馬で新聞記者をしていた頃よく耳にしたタウトでした。彼はナチスドイツの迫害から逃れるため、高崎市の少林山達磨寺にある洗心亭で暮らしていた。そこでの二年三カ月は、地元の職人たちを相手に、工芸製品のデザインや製作指導を行っていたんですね。そんな基礎知識をもとに、彼の足跡を改めて辿ってみて深い感銘を受けました。この人が日本に来ていなかったら、日本の建築史や工芸文化はどうなっていただろうか、って。作中では、青瀬がタウトという人物の大きさに気づいていくことになります」

柔らかい光が差し込む小さな奇跡を着地点に

 青瀬はタウトと向き合うことで、建築士としての心構えを変化させる。そうした心情にも、横山の実感が乗せられている。

「あまたの職業と同じく、作家の仕事も経済活動の一つです。ひとたび書店に本が並べば、それは作品であり、また商品でもあることはわかっていますが、だからといって読者の顔色を窺いながら小説を書くことはできません。世の多くの建築士は、求められる仕事とやりたい仕事の狭間で揺れていますが、青瀬には商業的な事情すら霞むほどの境地に辿り着いてほしいと願いながら書いていました」

 ミステリーであり、建築士のリアルを綴った仕事小説でもある本作は、もうひとつの側面がある。青瀬は四五歳でバツイチ、元妻との間に一三歳の娘・日向子がいる。そんな人間が改めて家族と向き合う、家族小説なのだ。

「青瀬と元妻のゆかりは、本来なら末永く一緒にいられた夫婦だと思うんです。ところが、バブル経済が崩壊し、家計が破綻したことで、関係はもろくも崩れ去った。お金というのは本当に恐ろしいものだという現実感は、この小説の底流に流しておきたかった」

 家族の問題にフォーカスを当てることとなった理由は、題材からの必然だったと言う。

「青瀬だけでなく、事務所所長の岡嶋やクライアントの吉野らの家族を重ね合わせて書くことで、家族という関係の機微を表現できたと思います。書いていてつくづく思ったのは、家を書くということは、家族を書くということだった、でした」

 やがて青瀬は、建築に対する情熱と共に、家族に対する情熱も再燃させる。

「小説を書き進めていくうちにだんだんと、その小説の空気感というか、その小説が求めるものが決まっていきます。『ノースライト』では、柔らかい光が差し込むような、小さな奇跡みたいなものを着地点に埋め込みたいと思うようになりました」

 本作はもともと、二〇〇四年から二〇〇六年にかけて雑誌連載された作品だ。警察小説の超大作『64(ロクヨン)』を完成させた後、満を持して改稿に着手した。結果、六年もの歳月が費やされることとなる。

「どうして書けなかったのかという言い訳を連ねたら、一冊本が書けます(笑)」

 スランプ脱出の契機となった改稿点は、大きく二つあったという。ひとつは、青瀬が情熱を傾けたY邸の設計だ。

北向きの家を設計し主人公に己を乗せた

「普通、日本の住宅は南向きに建てますが、住宅密集地などでは採光がままならず、建築士の方々は苦労していると聞きます。そこからの逆転発想で、北向きの家を建てたらどうだろうかと考えたんですね。現実はともかく、小説的には成立する家だと思いました。ただ、連載時にはその発想がなく、Y邸は具体性のないぼんやりとした家だったので、いくら青瀬が"思いのすべてを注ぎ込んだ"と書き連ねても説得力がなく、物語も面白く転がっていかなかった。なので改稿時はまず、本気でY邸を建てました。十も二十も考え、最後に辿り着いたのが、北向きの家の屋根に光の煙突を三本立てて、ノースライト(北からの光)を採光する今の設計です。画用紙で模型を作り、煙突に懐中電灯を当てて"(光が)入る、入る!"なんて喜んだのを覚えています(笑)」

 もうひとつの改稿点は、意外なものだった。主人公の造形だ。

「他の小説では、主人公の肩のすぐ後ろに自分がいるような感覚で物語を書いていました。今回の主人公はクールで孤独な魂の持ち主というイメージが最初に強くあったものですから、ちょっと距離感を持って、彼のことを追いかけていたんですね。それがために、いろんな人生の曲がり角にぶつかった時に、彼が選択する行動にどこか自信が持てないというか、私自身の実感が伴っていなかった。主人公に強い求心力というか、重力や引力が働いていないと、ストーリーも文章も全部、空中分解してばらばらになってしまうんです」

 ならばと、これまで書いてきた主人公たち以上に、青瀬と自分の距離を近付け、彼の内面や行動原理に自分自身の人生や実感を乗せていこうと決めた。すると、ばらばらに思えたピースが集まってくる感触があった。残された作業はひとつだ。一文一文を徹底的に吟味し、時間がかかってもいいから、納得のいく作品を完成させること。

「雑誌段階のものでも、少し手を入れて本にして出せば、商品にはなったんだと思います。でも、それをしたらもう作家を名乗れません。作り手自身が最善を尽くしたと言い切れるものでなければ何も伝わらない。逆に言うと、本気で書いたものや本気で作ったものは、必ず何か伝わるものがあると信じています」

著者名(読みがな付き)
横山秀夫(よこやま・ひでお)
著者プロフィール

1957年東京生まれ。新聞記者、フリーライターを経て、98年「陰の季節」で松本清張賞を受賞し、デビュー。2000年「動機」で第53回日本推理作家協会賞(短編部門)を受賞。12年刊行の『64』は英国推理作家協会のインターナショナル・ダガー賞最終候補にも選ばれた。その他の著書に、『半落ち』『第三の時効』『クライマーズ・ハイ』など多数。

〈「STORY BOX」2019年5月号掲載〉
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「警察組織は最適の舞台装置」──警察小説の強みは、どこにあると思いますか? 事件、犯罪と名の付くものなら何でも取り込めて、それを足掛かりに人間の内面に分け入っていけるところですかね。ただ私の場合は、警察内部のゴタゴタを「事件」と見なす作品が多いので、警察が完全無欠の組織体であることが何よりの強みというか魅力だと思っています。