今月のイチオシ本【歴史・時代小説】

『ちえもん』
松尾清貴

ちえもん

小学館

 一七九八年、長崎から出港したオランダ船が、暴風雨で座礁、沈没した。長崎奉行は沈没船の引き揚げができる人間を募集したが、ことごとく失敗した。そこに廻船業者の村井屋喜右衛門が現れ、難事業を成功させた。『南総里見八犬伝』『真田十勇士』などで歴史時代小説作家としても注目を集める松尾清貴の新作は、生地の山口県や活躍した長崎県以外ではまだ無名の喜右衛門を主人公にしている。

 沈没船の船底には穴があき、大量の樟脳が漏れ出した。水に溶けず、人体に悪影響を与える樟脳によって潜水作業は難航する。こうした技術的な問題点だけでなく、武士の非協力的な態度など次々と起こるトラブルを喜右衛門が智慧と勇気で乗り越えていくクライマックスは圧巻だが、これは終盤の一エピソードに過ぎない。著者は、喜右衛門の幼少期から物語を始め、なぜ困難なミッションを引き受けるに至ったのかに迫っているのだ。

 周防の廻船業者の次男として生まれた喜右衛門は、家業は長男が継ぐので、独立しなければ飼い殺しにされる立場にあった。体力はないが卓越した智慧を持つ喜右衛門は、同じように家を継げない次男以下の男や貧しい農漁村の人たちと手を組み、新規事業を立ち上げていく。

 だが喜右衛門の人生は、決して順風満帆ではなかった。家父長制に縛られ自由な言動ができない人たち、本藩との力関係で不利な条件を押し付けられても反論できない枝藩、お上に強い権限を与えられ新参者を阻む網元といった保守的な政治と経済のシステムが、喜右衛門の斬新な改革の前に立ちはだかるのである。

 こうした圧力は現代の日本にも存在しているだけに、智慧を振り絞り壁に穴をあけようと奮闘する喜右衛門の活躍は痛快に思えるし、既存のシステムに抗って新たな一歩を踏み出さなければ、未来が切り開けないことも実感できるだろう。

 喜右衛門は、貧しい人たちを事業に巻き込み自活できるようにするが、それは慈善活動ではなかった。喜右衛門は、相手も自分も儲かる営利事業でなければ長続きしないと語るが、これは日本の格差対策に最も欠けた視点のように思えた。

(文/末國善己)
〈「STORY BOX」2020年11月号掲載〉

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