◎編集者コラム◎ 『消された信仰 「最後のかくれキリシタン」──長崎・生月島の人々』広野真嗣
◎編集者コラム◎
『消された信仰 「最後のかくれキリシタン」──長崎・生月島の人々』広野真嗣
「この絵、誰を描いたものか分かりますか?」——長崎での取材から戻ってきたノンフィクション作家・広野真嗣氏は、興奮気味にそう話していた。その絵というのが、本書のカバーにも掲載した「ちょんまげ姿のヨハネ」の聖画である。
聖画に描かれた「洗礼者ヨハネ」は、ヨルダン川でイエスに洗礼を授けた、キリスト教の信仰における重要人物だ。数多くの西洋絵画にも描かれてきたが、もちろん新約聖書に登場する人物の頭髪が「ちょんまげ」のはずはない。ではなぜ、長崎県平戸市の辺境に位置する「生月島(いきつきしま)」に残された聖画では、ヨハネがちょんまげ姿で描かれているのか。本書はそこをスタート地点に、いまも残る〝ふしぎな信仰〟の歴史と真実に迫っていく。
舞台となる生月島は、江戸時代の禁教令下で「かくれキリシタン」として250年以上にわたって密かに信仰を守ってきた人々の末裔が暮らす島だ。ヨーロッパからやってきた宣教師が徳川幕府によって追い出されたり、処刑されたりした後も、信仰を続けた島民たちは、「ヨハネがどんな姿なのか」という情報もなく、西欧人らしい絵を描けば取り締まりに遭うリスクもあったため、こうした〝ふしぎな聖画〟が残されたと考えられている。
著者の広野氏が取材をスタートしたのは2017年。「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界文化遺産に登録される前年にあたり、現地は観光需要が喚起される期待に沸いていた。ところが著者は、県のPRパンフレットから、生月島の存在が意図的に「消された」と思しき形跡を見つけ出す。貴重な歴史が刻まれた島のはずなのに、なぜ——その違和感から、著者は取材を重ねていく。
担当編集として島に同行した私も、生月島にある重要なかくれキリシタンの聖地に向かう途中、巨大な落石が放置されていて、前に進めないといった状況を目の当たりにした(行政や関係機関が放置していた事情は驚くほどお粗末なものだったが、詳しくは本書をお読みいただきたい)。驚いたり、憤ったりしながら、著者はこの島の信仰がカトリックの側から「都合の悪い存在」として扱われてきたことを明らかにしていく。
単行本化された頃は、インバウンド需要が盛り上がり、世界遺産登録された長崎の教会群もその文脈で注目を集めていた一方、生月島にスポットライトが当たることはなかった。その後、コロナ禍により観光業は大きな打撃を受けたが、本書はどんな時代にあってもスポットを浴びることなく静かに祈りを捧げてきた人たちの物語である。その物語を通じて、現代のカトリックの権威主義や排他性も浮かび上がってくる。文庫化をきっかけにまた、ひとりでも多くの人に読んでもらいたいと願っています。
──『消された信仰』担当者より
『消された信仰
「最後のかくれキリシタン」
──長崎・生月島の人々』
広野真嗣