滞米こじらせ日記~愛しきダメな隣人たち~ 桐江キミコ 第6話 太った火曜日④
彼女のことばの破片が、心にぷすぷすと突き刺さる。
難民のシスターがどうやって東南アジアからミッドウエストの草原の真ん中にぽつんと建った修道院に流れ着くことになったのか、ほかのシスターからいきさつを聞いたかもしれないけれど、聞いたとしたら、すっかり忘れてしまった。何にしても、そうやって修道院で1週間過ごしている間、毎日、難民のシスターは、ひとりで中庭をぷらぷら散歩していた。ことばを交わしていないから心の中まではのぞけなかったけれど、ちょっとさみしそうにも、退屈しているようにも、見えた。アメリカに来て、修道院にたどり着いて修道女になったことほどハッピーなエンディングはなかったとでもいうような口調でほかのシスターたちは語ったけれど、でも、ひょっとしたら、修道院入りしたのはアメリカで生きていくための手段だったのかな、と思ったりもしたのを覚えている。だれとも口をきかなかったし、ぜんぜん楽しそうにも見えなかったから。修道院は、そもそも楽しく過ごすべきところではないのかもしれないが。
だだっ広くて、冷ややかで、閑散としていて、暗くてひんやりして、足音が廊下に響く、幽霊屋敷さながらの修道院からカレッジに戻って、週末ごとに違う男のところに泊まり歩いているルームメートのミリアムや、髪をブロンドに染めるたびに共有しているバスルームをヘアダイで汚すスイートメートのメアリーや、地響きするほどのボリュームでロックを流して辟易(へきえき)させられている隣人のジーンを見て、ほっとしたような感じがした。
テューダーシティにある歯医者へは、地下鉄1本で行けるせいで油断して、毎回、アポの時間ギリギリにたどり着く。でも、あるとき、たまたま時間前に行って、たまたま目の前のタイム誌を手に取って、たまたまマザー・テレサの記事を読んだことがあった。
マザー・テレサは、その昔、ドキュメンタリービデオで見たことがある。強いインドなまりの英語にちょっとびっくりして、それから、贅沢(ぜいたく)だという理由で窓からマットレスを投げ出すシーンにもちょっとびっくりして、その記事を読むまでは、マザー・テレサの頭の中には一枚岩のゆるぎない信仰があって、その信仰ときたら、全地球の重みがかかってもビクともしないのだろうと思っていた。
そしたら、そのマザー・テレサが、実は、信じる人でなくて考える人で、あれだけ神にすべてを捧(ささ)げ、あれだけ神に尽くし続けたのに、神の存在を疑い、そして疑う自分を偽善者として恥じ、魂の空洞を持て余していたことを、知った。
- 1
- 2