滞米こじらせ日記~愛しきダメな隣人たち~ 桐江キミコ 第7話 カゲロウの口①
かすめて出し抜くようなジョークに慣れるには時間がかかる。
「年老いたら苦しいことばかりの連続だ。神は、年寄りを惨めにさせて、早く人生を終わらせたくなるよう仕向けるという慈悲深いことをなさる」
とは、ミスター・アロンソンの口癖だ。
ミスター・アロンソンは、南米出身のアシュケナジ系ユダヤ人で、皮肉っぽくてネガティブで悲観的でシニカルで厭世的(えんせいてき)でひねくれていて気難しい、80代後半の長老だ。非公式な住人も入れて10万人が住んでいるという巨大レジデンシャル・コンプレックスのスタイヴェサントに住んでいる。人付き合いはまったくなく、冬になると何か月もアパートに閉じこもっている。新聞も取らないし、テレビもラジオもないし、CDプレーヤーもない。音も会話もない、人との接触も外部の情報も遮断した、索漠とした毎日を繰り返している。じゅうぶん睡眠を取らねばならない、ということがオブセッションで、朝から晩まで、夜寝られるかどうか心配して、1日かけて夜寝るための準備をしている。
ミスター・アロンソンの子供──といっても充分おとななのだが──を知っている関係で、遠隔地に住んでいる彼らの代わりに時々お世話をする。お世話をするといっても、ミスター・アロンソンができない買い物を月に2、3度代行するだけなのだが。緊急事態が起こった場合は、病院に連れて行くことになっている。緊急事態は1度だけあって、夜分遅くにミスター・アロンソンに付き添って、アッパーイーストにあるマウント・サイナイ病院の救急に連れて行った。実の父にしてやれなかったことを、ほかの人にしている。
それにしても、ミスター・アロンソンがあまりに隔絶された生活を送っているので、
「テレビもなかなかいいものですよ。世界が広がりますよ」
と幾度となくすすめたのだけれど、ミスター・アロンソンは、
「へっ、だれがあんなバカげたものを見るか」
とはなも引っかけない。
「でも、たかがテレビといってバカにできないですよ。サイエンス・チャンネルとか、ナショナル・ジオグラフィック・チャンネルとか、ヒストリー・チャンネルとか、とても興味深い番組をやってるんです。ミスター・アロンソンだってサイエンスが好きでしょう、この前は、時間についての特別番組をやってたし。時間というのは主観的なもので、伸びたり縮んだりするってことを証明するなかなかおもしろい実験もしてたんです」
と言っても、
「目が痛くなるだけだ」
と鼻であしらう。
「じゃあ、ラジオならいいでしょう、ナショナル・パブリック・ラジオなんかとてもいいですよ。クラシック音楽のチャンネルもあるし、ニュースも聞けるし、朗読もあるし」
すると、ミスター・アロンソンは、あっちへ行け、というふうに手ではらう。
今度ミスター・アロンソンに何かをサジェストするときは、反対のことを言えばいいんじゃないかと思う。そうすれば、何でも反射的に否定するアマノジャクなミスター・アロンソンのことだから、まんまと引っかかるかもしれない。
ミスター・アロンソンが相当なアマノジャクであることは、政治的に正しくない発言だけれど、ミスター・アロンソンがユダヤ人であることとも少しは関係しているかもしれないと思う。
ユダヤ人のジョーク。
「傘は1本しかなかったのに、3人の太ったおばあさんは濡(ぬ)れませんでした。なぜでしょう?」
その答え。
「雨が降らなかったから」
「ひと月に28日がある月は何月でしょう?」
「すべての月」
ミスター・アロンソンのジョークは、どこか、かすめて出し抜くようなところがあって、慣れるのに時間がかかった。
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