滞米こじらせ日記~愛しきダメな隣人たち~ 桐江キミコ 特別編(小説) 三郎さんのトリロジー④
社長が珍しく怒鳴り声を上げた。
目線の先には三郎さんがいて…。
高柳商店にしばらくいると見えてきたのだが、三郎さんは、銀子さんが言うまでもなく、本当に役に立っていた。「三郎さん、ちょっと頼んじゃっていいかな」というのが、三郎さんに仕事を頼むときの銀子さんの口癖だった。同じフレーズを、専務も、営業部長も、中村さんも、使った。自転車通勤している銀子さんは、「またギコギコいいだしたんだよね」と言ってはチェーンに油を差してもらっていたし、専務は、昼の弁当を買いに行かせたり、取り寄せた本を本屋に取りに行かせたりしていた。
三郎さんは、どれが本来の仕事でどれが私用なのかかまうこともなく、言われたことは言われたまま、文句ひとつ言わずに引き受けた。ほんとに、根っからマジメな人だった。いや、マジメというよりも、気がいいせいだったのかもしれない。というより、気が弱いだけだったのかもしれないし、そこまで気が回らなかったのかもしれない。
が、役に立っていながら、感謝されない星巡(ほしまわ)りの人でもあった。それがいったいなぜなのか、よくわからなかった。
あるとき、いつもは窓から見える三郎さんの姿が見えなかった。
「三郎さん、どうしたんですか」
銀子さんに訊くと、銀子さんは、
「風邪を引いたんだってよ、この季節に」
顔も上げずに言った。
「三郎さんが休むなんて珍しいですね」
「うらやましいわよねえ、風邪を引く余裕があって」
銀子さんは、引き続き電卓を打ちながら言った。
「わたしは風邪なんか引くひまもないもの。いろいろ頼みたいことがあるのに、こんなときに休まれたら困っちゃうわ」
三郎さんに関しては万事がこんな調子だった。
高柳商店の社長は、外へ出ているか、外に出ていなければ事務所の奥の社長室に引っこんでいて、ほとんど顔を合わすことはなかった。赤ら顔で、頭の頂上だけ禿(は)げていて、まるで雪だるまみたいなまるまっちい体格で、ほかの人が肌寒いと感じるときでも汗をかいて、しょっちゅうハンカチでおでこをたたくようにして拭いていた。ろくろく挨拶もしない寡黙な人だったけれど、たまに三郎さんに話しかけるのを見たことがある。何を話しているのかはわからないけれど、2人して、時々、笑った。三郎さんを笑わすことのできる人なんて、今まで見たことがなかった。社長は、空に向かってぷはぷはと笑い、三郎さんは地面に向かってへらへらと笑うのだった。