今月のイチオシ本【エンタメ小説】

『9月9日9時9分』
一木けい

9月9日9時9分

小学館

 主人公は、高校一年生の漣。父親の海外赴任に伴い、保育園の年長の時から中二で帰国するまで、八年間タイのバンコクで暮らしてきた。漣には歳の離れた姉・まどかがいて、彼女は漣がバンコクにいる間に結婚し、離婚していた。今は実家に戻っているまどかは、漣の記憶にある彼女とは別人のようになっていて、両親も漣も、まどかに対しては腫れ物に触るように接している。

 バンコクで過ごした日々を愛してやまない漣は、口にこそ出さないが、日本とバンコクを比べがちだ。それはタイの人たちが「特に子どもには無条件で優しかったから」。そんな国で育った漣にとって、目下の一番の悩みは、電車通学時に痴漢にあうことだった。これがタイだったら、躊躇なく助けを求めることができるのに、日本では誰も手を差し伸べてくれなかったらどうしよう、と不安が先立ってしまい、ひたすら耐えていた。

 そんなある日、漣は渡り廊下ですれ違った先輩に、一瞬で心を奪われてしまい、恋に落ちる。けれど、その先輩・朋温は、「好きになってはいけない人」だった。彼は、まどかのかつての夫の弟だったのだ。まどかに手酷いDVを加え、心身ともにぼろぼろにした、その相手の弟だったのだ。

 姉を大切に思う気持ちと、朋温を愛する気持ち。張り裂けそうになる心を抱えながらも、朋温に向かう気持ちを止められない漣。家族に嘘をつく苦しさに押しつぶされそうになりながらも、それでも朋温との時間は、漣にとってはかけがえのない宝物だった。けれど、そんな日々も長くは続かず、二人の関係は露見してしまう──。

 誰かを傷つけること、傷つけられること。その癒えない傷の深さ。加害者と被害者という壁は、一生消えることはない。それでも。お互いを憎みあい、傷にだけ目を向け、過去に搦めとられることのない、新たな道もあるのではないか。その道を選ぼうとする漣を培ったのは、バンコクでの日々だ。そこもいい。ラスト、9時9分に向かって駆け出す漣の背中が眩しく胸に残る。

(文/吉田伸子)
〈「STORY BOX」2021年6月号掲載〉

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