一木けい『9月9日9時9分』

一木けい『9月9日9時9分』

いつも言葉を探している


「嫉妬」と「埃」の区別がつかない。どちらのタイ語も無理やりカタカナにすれば「フン」だ。ネイティブの発音を聴くと違うのはわかる。でもその通りの音を正確に出すことができない。舌や歯などついているものは同じなのにどうして、といつも思う。ちなみに「天国」と「明るい」も、「虫」と「癌」もよく似ている。という話をタイ人にすると「全然似てない」と笑った後で「でもそんな単語知ってるなんてすごいね」と褒めてくれる。

 こんな調子だから、タイ語を話すとき間違ってたら恥ずかしいなと気後れすることはなくなった。(苦手な子音をうまく出せなかったせいで破廉恥な単語を口にしてしまっていたと後から気づいて頭を抱えたことはある)

 完璧は求めない。だめだったらやり直すか、別の手を考えればいい。そんな気持で生活している。

 あるとき、我が家の浴槽の栓が閉まらなくなった。2ミリの隙間から湯がちょろちょろ抜けていく。修理を頼むとその栓が今度は2ミリ以上あがらなくなった。湯を抜くのに果てしない時間がかかる。対応(消耗)する時間が惜しい。以来、栓抜き代わりに銀の大きなスプーンを使うようになった。

 お釣りを間違えるとか約束の時間に現れないとか開店時間に行ったのに開店していないとかカフェの店員がBGMより大きな音で動画を観て爆笑しているとか、そんなことで怒る方が恥ずかしいくらいのムードがタイにはある。

 勿論あまりに切羽詰まっているときはそんな綺麗事は言っていられない。

 進まぬ原稿に焦りバンコク某宿に缶詰になったときのこと。チェックイン時「仕事をしに来たのでしずかな部屋を希望します」と伝え、入室後 don’t disturb の札を提げた。コーヒーを淹れパソコンをひらき、用心に用心を重ねてシャボン玉のような要塞を作り上げる。集中に入った。数か月に一度の集中が来た、と高揚した瞬間、ドアをノックするリズミカルな音。シャボン玉は割れてしまった。時間がない。どんな言葉を選べば伝わるだろう。物語を追い出し脳内でタイ語を組み立て、口の中で発音を予習し、ドアを開けた。

 そこに立っていたのは、満面の笑みを浮かべたスタッフ二人。

「がんばってね!」カオニアオマムアンが差し出され、「パソコン使うならこっちの光の方が目に良いよ」と新たなライトスタンドを設置してくれた。

 何がどう転がるかわからない。探して、失敗して、許され、許し、進んでいく。

 執筆は大いに捗り、『9月9日9時9分』が出来上がった。

 


一木けい(いちき・けい)
1979年福岡県生まれ。東京都立大学卒。2016年「西国疾走少女」で第15回「女による女のためのR-18文学賞」読者賞を受賞。同作を収録した『1ミリの後悔もない、はずがない』が業界内外から絶賛され、華々しいデビューを飾る。他の著書に『愛を知らない』『全部ゆるせたらいいのに』がある。現在、バンコク在住。

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9月9日9時9分

『9月9日9時9分』
著/一木けい

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