朝倉かすみさん『にぎやかな落日』
書きながら、母と同じ体験をしたような気持ちになりました
北海道で一人暮らす83歳のおもちさん。そのにぎやかな日常と生活の大きな変化を描く朝倉かすみさんの新作『にぎやかな落日』。おもちさんのモデルは、朝倉さんの母親だという。親の心の中を丁寧に描き出したのは、背景にどのような心境があったのだろう。
母親に対して申し訳ない気持ちがあった
北海道の石狩市に暮らすもち子、通称おもちさんは昭和10年生まれの83歳。去年、夫の勇さんが特別養護老人ホームに入ったため、現在は一人暮らしだ。娘のちひろは東京におり、たまに帰省するが普段は息子の妻のトモちゃんがなにかと面倒を見てくれている─朝倉かすみさんの『にぎやかな落日』は、そんなおもちさんの日常を、彼女の心に寄り添って綴る一冊だ。
「うちの母親はすぐものを忘れるので、私が怒ったりイライラしたりしてしまうようなことがあったんです。何も分かってないんだからと思って〝はいはい〟と切り捨てちゃうんだけど、気持ちを分かってあげずにただプンプンしていてごめんなさい、という思いがありました。それに、どうして母がそのような言動をとるのか、自分は知っているような気がして。それで、母の心の中を書きたくなったんです」
そう、おもちさんのモデルは朝倉さんのお母さんなのだ。
「もちろん実際の母の経歴に足したり引いたりしていますが、おもちさんをそこに当てはめています。結婚した後で小樽から石狩に移り住んだことや、夫が特養に入ったことも本当。11人兄弟だったというのはフィクションですね。本当はもうちょっと多かったと思いますが、私も何人だったか憶えてなくて」
大らかでマイペース、でも自分の主張はなかなか曲げないおもちさん。近所のお仲間とお喋りに興じたり、隣の空き地に畠をこしらえたり、カラオケ大会に行ったり、日々のことをノートに書き留めたりしながら毎日を過ごしてきた。でも最近は記憶がかなり曖昧になりつつあるうえ、糖尿病がひどくなり、ちひろやトモちゃんに心配されている。医師からおやつを控えるように言われているのに間食がやめられず、検査の数値は悪化するばかり。そもそも診察の際、医師が説明しているのに上の空で、同席しているトモちゃん任せだったりする。
「母もそうでしたね。この年齢になる前から、〝上手に聞いてるふりしてるよー〟って言ってましたから(笑)。話を聞いていないのに無視されると嫌だっていう。それに、父が特養に入って一人暮らしになると生活の何かが崩れるのか、本当におやつをたくさん食べていました。自分は糖尿病だということも憶えていられないからと家の中に〝私は糖尿病〟って貼り紙をしているのに、それでも忘れてしまうんです」
三題噺のような章タイトルの意味は
勇さんと一緒に暮らしていた頃のことなど、回想を交えながら現在の日常が綴られていく本作。節約することを〝経済する〟、結婚することを〝カマドを構える〟など、今はなかなか耳にしない古い表現がたくさん登場する。方言といえば、朝倉さん作品の読者にとっては馴染みのある〝肝焼ける〟が出てきてニヤリとさせられたり(デビュー作のタイトルが『肝、焼ける』)、〝あずましくない〟に「落ち着かない」といったルビがふられていたりと、独特な文章世界が楽しい。もちろん、あえて変わった言葉を選んだわけではない。
「〝あずましくない〟はすっごくメジャーですよ!(笑) それに、母はもっと分からない言葉をいっぱい言っていたんです。方言だけじゃなくて、母特有の造語みたいなものもありましたが、そういう言葉は排除していきました」
おもちさんは何冊もノートをつけている。そのなかの一冊の表紙に書かれた「たんす、おべんと、クリスマス」が第一章のタイトル。読み進めれば、それが何を指しているのか判明、これがまた意外だ。他の章タイトルも「コスモス、虎の子、仲よしさん」「口紅、コート、ユニクロの細いズボン」など、一見脈絡のない言葉が三つ並ぶが、どれも作中に登場するものばかりだ。
「最初に書きたいなと思うものを三つ決めて、それが全部出てきたらひとつのお話が終わる、というように書いていきました。そうしておけば、章タイトルを考えなくてすむので」
そういえば山本周五郎賞を受賞した『平場の月』でも、章タイトルは作中人物が発する台詞だった。その時も、台詞を先に決めて、そこに向かって書き進めていったというから、これはもう、朝倉さんならではの執筆スタイルといえるのかも。
晩年の生活は目まぐるしく変化する
「母親を見ていると、配偶者が施設に入ってからどんどん生活が変わっていったんですよ。若い頃だって子どもの成長にあわせて生活は変化するけれど、しばらく同じような日々が続きますよね。でも、年を取ると、身体が弱っていくのにあわせて、次々いろんなことが起きるんです。それは本人にとっても負担だろうなと思いました」
というように、おもちさんの生活は自身の意思とは関係なく、どんどん変化していく。まず、糖尿病が改善されないため、ついに入院して食生活を管理してもらうことに。もちろんそこに、不満や不安はある。本当は自分の家にいて、トモちゃんかちひろに面倒を見てもらいたいのだ。そんな折、同室になった女性、野森さんが意外なことを言う。酒乱の夫と別れて娘を育て、今はその娘夫婦と暮らしているという彼女だが、
「あたしは娘一家といるよりも、こうやって赤の他人と一緒のほうが気が楽なのサー」
この発言に共感する人もいるのではないか。世話をする家族にも負担がかかるだろうが、家族に世話してもらっている側もまた、心理的に負担だったりするものだ。だがおもちさんは野森さんに「へーえ、変わってるネェ」と返す。
「私の親世代は家族と一緒に晩年を過ごしたいと思う人が多いですよね。うちの親もそうでした。私も母に〝戻ってくればいいっしょー〟と言われていました。だいぶ前から一緒に暮らす気はないと伝えていますが、〝はっきり言うねー〟ってがっくりと肩を落とすんですよ」
ちひろも、「わたしの時間を丸ごとお母さんに差し出すつもりはないんだよ」と言い放つ。そしておもちさんは退院後、食事を管理してくれる老人向けの施設、「夢てまり」に入ることに。入居者たちは個室に住み、食事やレクリエーションの際はみんなが集まるという生活が始まる。ここがなんとも清潔そうな空間で、スタッフも感じがよく、好感度が高い。これも、実際に朝倉さんの母親が入居した施設がモデルだそうだ。
「素敵なマンションみたいな感じです。身体が動かなくなって入る特養は病院的なものに近いけれど、動けるご老人たちの施設ってそうでもないんですよね。母はみんなと仲良くして活躍しているようで、施設の人のブログに楽しそうに何かの行事で鬼退治している写真が載っていました(笑)。女子高生みたいなところもあって、食堂に行く時にハンカチなどを入れて持っていく小さな可愛いバッグが流行っているみたいなんですよ。コロナ禍なので買いに行けないし、どうしたものかと悩んでいたようで、たまたま私がムーミンのバッグを送ったらものすごく喜んでいました(笑)」
書くことで母親の心の中が見えてきた
こうした生活の変化のなかで、おもちさんが感じること、胸をよぎることとは何なのか。
「書きながら、母と同じ体験をしたような気持ちになりました。母親が目で訴えていたことがはっきりしてきた感じ。それと、こういう生活って、夜が長いんだなって思って。いろんなことを考えるから、前の日に決めたことも翌朝に〝やっぱり嫌だ〟と言い出すんだなと分かりました」
娘の立場としては、どのように感じているのだろう。
「読む人たちから、こんなに好き勝手やって身体悪くするのは自己責任だって言われるだろうなと思いながら書きました。でも、どんなに言われても、できないんですよね。どんどん痩せていくのに。〝もう年なんだから好きなように食べさせてやれ〟と言う先生もいて、揉めたこともありました。他人からしたらそりゃそうなんだろうけれど……」
この本を、お母さんには渡すのだろうか。
「〝お母さんの経歴におもちさんを当てはめて書いているけれど、小説だからずっと年寄りっぽくしたんだよ、ごめん〟って言いながら渡します(笑)。母が読むかは分かりませんが、いつも私が本を出すと〝いっぱい書いて偉いね〟〝本を出してもらってよかったね〟と言っています」
勇さんのモデルであるお父さんはどうしているのかと訊くと、「このお正月に亡くなりました」と。思わず言葉を失うと、「そう言われてもどう返せばいいか分からないよねえ」と笑う朝倉さん。
「コロナ禍なので、面会謝絶だったんです。本人は寝たきりなのでコロナ禍のこともよく分かっていないまま、家族が会いに来てくれないと思いながら死んでいったのかなと思うとすごく可哀想です。医師からもう長くないよと言われていたんですが、時間感覚のない母は〝今日死ぬのか〟〝明日死ぬのか〟と気が張っていたようで、それも可哀想でした。たまに父に会わせてもらったそうですが、感極まって取りすがるものだから、父はその後隔離生活を送らなくてはいけなくなったりしてましたね(苦笑)。小さなお葬式はしましたが、母は基礎疾患があってリスクが高いし、集団で暮らしているからもし感染したら困るからって、参列できなかったんです。お通夜の晩に乗代雄介さんの『旅する練習』を読んで、どうかっていうくらい泣きました」
自分の老後についてはどう思う?
読みながら、誰しも親や自分の老後について、なにかしら思うものがあるはずだ。朝倉さんは、老後をどう過ごしたいのだろう。
「今、毎日、おまじないのように〝死ぬまで頭がしっかりしていて健康で長生きします!〟って唱えています(笑)」
施設に入ることも厭わないそうで、
「そういう時がくるだろうと思って、断捨離的に荷物を減らしているんです。ものを書く人ってみんなで一緒に暮らして、体操したり童謡を歌ったりするのは嫌、という人が多そう。私はやりますよ!(笑) 集団で暮らすといっても自分の個室があるし、食堂に行けばご飯を食べさせてもらえるし、お風呂掃除だってしてもらえるなんていいじゃないですか。なんだか、寄宿舎生活みたいじゃない?(笑)」
朝倉かすみ(あさくら・かすみ)
1960年北海道生まれ。2003年「コマドリさんのこと」で第37回北海道新聞文学賞を、04年「肝、焼ける」で第72回小説現代新人賞を受賞し作家デビュー。09年『田村はまだか』で吉川英治文学新人賞、19年『平場の月』で第32回山本周五郎賞を受賞。他の著書に、『ロコモーション』『静かにしなさい、でないと』『満潮』など多数。
(文・取材/瀧井朝世 撮影/浅野剛)
〈「WEBきらら」2021年6月号掲載〉