笹本稜平『山岳捜査』
捨てる神あれば拾う神あり
こういう場所で死ぬのも悪くないな──。抜けるような青空と降り注ぐ陽光。頭上にそびえるハイマツと残雪のコントラストが美しい稜線。そんな風景のなかで、とくに切実なものもなく、ごく自然にそう思っていた。
槍ヶ岳の肩付近からシッティンググリセード、いわゆる尻セードで滑り降りようとしたら、アイスバーンで一気に加速し、前日の日中にできた登山者の足跡が凍っていて、そこに突っ込んだ足が捻られ、体は宙に飛ばされた。制御不能になり、300メートルほど下の踊り場のような場所で自然に止まった。
落ちている最中も、そこで止まることはわかっていたので、とくに焦りもしなかったが、やれやれと思って立ち上がったときに異変に気づいた。左足の爪先が後ろを向いている。
すぐ近くに山小屋があったが、まだ小屋開き前で人がおらず、春山訓練らしい大学か社会人の大人数のパーティーが登ってきたが、助けを求めても相手にもしてもらえない。
やむなく3キロ余りある雪渓を、雪上に横たわり、ピッケルでブレーキを掛けながらゆっくりと滑り降りた。
雪渓の末端まで5時間ほどかかった。天候が悪化する気配もなく、足が折れた程度で遭難死するはずもなかったが、そのときの思いは、絶望とか悲嘆ではなく、そんな奇妙な諦念とでもいうべきものだった。
しかし捨てる神あれば拾う神ありで、下からやってきた単独の登山者が足の状態を見てくれた。たまたま柔道整復師の資格を持つ人で、丁寧にテーピングしてもらい、足の状態はいくらか落ち着いた。次にやってきたのがこちらも単独の登山者で、なんと本業が整形外科医だった。
足の状態を見て下の小屋まで駆け下りて連絡してくれ、担架を持って駆け付けた小屋の従業員に小屋まで運んでもらい、翌日、ヘリで上高地まで降ろされた。
幸運なことはほかにもあった。当初搬送される予定だったのは上高地の麓の島々にあるクリニックだった。ところが医師が旅行中で、やむなく警察の手配で、通常は急患を受け入れない信州大学付属病院に直接運び込まれたが、あと数時間遅れれば足を切断しなければならない状態だった。いったんクリニックに運ばれていたら、そこからの搬送に手間どり、あるいは手遅れだったかもしれない。小説だったらまさにご都合主義の連発だ。
今回の舞台は同じ槍ヶ岳でも鹿島槍ヶ岳。北アルプスを代表する名峰の一つだ。これまではヒマラヤ、アラスカなど海外の山を舞台にした作品が多かった。主人公は山岳救助隊員で、どちらかといえば警察小説の要素が強いが、厳しさも含め、日本の山の素晴らしさを存分に書き込んだつもりである。見ず知らずの登山者や山小屋の人々の好意によって、足を失わずに済んだことへの感謝を込めて。