伊岡 瞬さん『不審者』

二面性を持っているのが人間の本質だと僕は解釈しています

 遠縁の男に人生を翻弄される弁護士を描いた『代償』など、家族を軸にした骨太のミステリーで、ベストセラーを連発している伊岡瞬さん。最新刊『不審者』も、秋の刊行からたちまち大反響となっています。平凡だった家族に、不審な男が入りこんでくる、緊迫感に満ちた長編。次々に明かされる衝撃の事実と、まさかのラストに、読み手は呆然必至です。伊岡さんに、本作の執筆の裏話、そして自身がこだわる小説のテーマについて、語っていただきました。

伊岡 瞬さん『不審者』

凪いだ海が一瞬で嵐になる物語

きらら……最新刊『不審者』の主人公、折尾里佳子は主婦業と共に、在宅で校閲の仕事をしています。この設定の着想はどこから?

伊岡……これまで家族をテーマに、小説を書いてきました。以前に発表した『悪寒』は夫視点の物語でしたが、今作は妻からの視点の物語にしようと思いました。主人公は、ちょっと風変わりというか、一般的には珍しい職種の女性にしたいと。そこで本の校閲者はどうだろうか? と考えました。校閲なら家にいながら働けますし、家のなかで起きる小さな変化や、嫌な出来事に気づきやすいでしょう。うまく話を進められそうなので、この設定になりました。
あと読者の方は、本好きの方が多いはず。校閲者の物語なら、共感と興味をもって、読んでくれるだろうという期待もありました。

きらら……里佳子が平凡な日々を過ごすなか、不気味な存在が現れます。夫の秀嗣の兄だという優平が、約20年ぶりに折尾家にやって来ます。

伊岡……物語のディテールを決める前に、参考にした作品があります。フランス映画の『太陽がいっぱい』。ご存じ、アラン・ドロンを世界的スターにした、犯罪映画の名作です。
主人公のトムと親友のフィリップが、ヨットに乗り、海上でふたりきりになるシーンがあります。沖合へ出る前の海は、凪いでいました。太陽がいっぱいに、さんさんと降りそそいで、海面は鏡のよう。しかしトムがフィリップを殺害して、海に落とした直後、天気は大荒れになります。トムは命からがら、暴風雨のなか、港へ帰って来る……トムのその後の人生の転換を象徴する、重要な場面です。あのシーンのように、凪いでいた海が一瞬で嵐になるような話を、書いてみたいと思いました。
優平は、凪いでいた里佳子の日常に波風を立てる存在です。彼のキャラクターには『太陽がいっぱい』からの影響があります。

里佳子と優平は相容れないが似たもの同士

きらら……優平は起業家と称し、秀嗣たちと家族関係を少しずつ回復したいと考えているようです。秀嗣は歓迎しますが、里佳子はなぜか初対面から、優平に強い嫌悪感を覚えています。

伊岡……優平は人当たりのいい美青年ですが、何となく表面的で、そもそも本当に実の兄弟なのか、証明されていません。警戒するのは当然の反応でしょう。また本能的に、里佳子自身の抱える闇の部分と、呼応したともいえます。

きらら……優平が家族に入りこんでいくなか、里佳子が引きずっている、自身の親姉妹との因縁が明かされます。

伊岡……優平は里佳子の家族に近づき、刻々と里佳子を追い詰めていきます。里佳子の母親も巻きこんでいくのは、優平の巧妙さでしょう。
ネタバレになるので詳しくは言えませんが、見方によれば、優平と里佳子は、似たもの同士かもしれません。他人に知られたくない暗い過去にとらわれ、ひとつの執着に縛られています。相容れないけれど、実は境遇が近い。お互いの考えていることが理解できるという部分では、合致しているといえます。
優平は、当初の目的を何よりも優先していて、里佳子を憎んでいるわけではないです。軽蔑もしていません。さまざまな手段で苦しめていますが、本当は攻撃対象ではなかったと思います。
だけど優平を好ましく感じる読者は、少ないはず。里佳子の味方でいてくれるはずの秀嗣も、優平にうまく取りこまれています。孤立した里佳子は可哀相。ある意味、この物語で一番、同情されるべきは里佳子かもしれません。

伊岡瞬さん

きらら……本人にそういう意図はないのでしょうが、秀嗣も的確に、里佳子を苛立たせます。

伊岡……異常者は、むしろ秀嗣だったかもしれないですね。家庭の内外で何が起きても、まず考えるのは自分の都合。独善的な性格は、サイコパス的でさえあります。ミステリーのテクニックとしては、秀嗣がクズな男でないと読者の方が里佳子に感情移入してもらえないので、あえてそうした部分はあります。
優平を書くのは難しかったのですが、秀嗣は特に悩まず、すらすらと書けました。僕のなかの異常さが、彼のキャラクターに自然にあらわれたのかなと思います。

JOKERのような変身の種は普通の人にも

きらら……里佳子は息子の「洸ちゃん」を守る、そして平穏な家族を守ることに、全力を尽くします。その様は、やや常軌を逸しているようでもあります。

伊岡……彼女には生来、頼るものがありませんでした。息子を愛しているというより、無条件で愛を注げる偶像が欲しかった。偶像に息子をあてはめ、穏やかな家族像の維持にすべてを捧げることで、心の安定を図っていたのでしょう。
里佳子には愛に満ちた、波風の立たない家族が理想の世界でした。けれど夫や義母との小さな軋轢が重なり、理想が揺らいでいく。そこに「不審者」が現れ、理想はもとから幻想だったと、思い知らされます。理想を維持するために、彼女は「洸ちゃん」にのめりこみ、優平への憎しみを募らせていったのです。

きらら……里佳子は、ある行動を決断します。そして、優平の目的がわかり、里佳子に関する驚愕の秘密も、明るみとなります。

伊岡……里佳子は小心者で、慎重すぎる性格。高校時代から〝リトル〟と呼ばれてきました。その彼女が最後にとった行動と、隠していた過去には、驚かされるかもしれません。だけどリトルな人ほどクレバーで、普通は見すごされるような異質や危機を、察知できる。だから警戒心は強く、身を守るために大胆な攻撃を加えることもあります。そういった二面性を持っているのが、人間の本質だと、僕は解釈しています。
今秋大ヒットした映画『JOKER』はバットマンの敵、JOKERの青年時代の物語です。気弱で優しい性格の青年アーサー・フレックが、異形の者に変わっていく過程を克明に描いています。実はアーサーがJOKERに変身する心のなかの種は、もとから彼のなかに息づいていたのです。里佳子もJOKERと同じように、最後の行動を決める前から、グラデーションが深まるように、少しずつ変容しています。
俯瞰で見れば、彼女は理想の家族を守りたかった、いたって普通の女性です。しかし理想にとらわれるあまり、人生の歯車がずれていきました。人の正気と、常軌を逸した激情に、明確な境は無いと、彼女の行為の顛末から伝わるのではないかと思います。

きらら……家族をテーマに、小説を描かれていると言われました。そのテーマの深掘りには、今作で成功されたでしょうか?

伊岡……『不審者』では、欠損のない家族を描いてみたいと思っていました。しかし欠損のないように見える家族にも、必ず欠けている何かがあるという結論に行き着いたように感じます。
デビュー作の『いつか、虹の向こうへ』のときから、人間はひとりぼっちで生きていけるのかを自問自答しています。ひとりぼっちで生きていけないとすれば、最も側にいてくれるのは、家族のはず。その家族が信じられるのか? 家族を壊すのは何か? いったい家族とは何だろう? という問いを、小説で繰り返しています。
人間を深く考えるうちに、いつの間にか家族がテーマになっていきました。作家として、そこから逃れたいときもあります。でも、人間の実像を突きつめていくと、家族に集束していくしかないのでしょう。


不審者

集英社


伊岡 瞬(いおか・しゅん)
1960年東京生まれ。2005年『いつか、虹の向こうへ』で第25回横溝正史ミステリ大賞とテレビ東京賞をダブル受賞してデビュー。著書に『145gの孤独』『瑠璃の雫』『教室に雨は降らない』『代償』『もしも俺たちが天使なら』『痣』『悪寒』『本性』など。

(構成/浅野智哉 撮影/浅野 剛)
〈「きらら」2020年1月号掲載〉
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