雛倉さりえ『もう二度と食べることのない果実の味を』
どこでもない街と、どこにもいけない子どもたち
『もう二度と食べることのない果実の味を』を書く作業は、街のジオラマをつくることとよく似ていた。まず、おおまかな土地の地形を決める。つぎに森を生やし、池をつくり、学校を建て、廃墟を置き、過去の記憶を──古い神話を地中に埋めこむ。精緻な都市の模型ができてようやく、そこで暮らす人びとのことを想像できるようになる。雨の多さ、空気の湿度、ひかりの色。細部に凝るほど、主人公たちが目にする景色や匂いや味や触感が近くなる。
今回は、実在するとある温泉街がジオラマづくりの大きな支えとなった。高度経済成長期からバブル期にかけて人気と栄華を誇ったその街は、けれどバブル崩壊と同時に、昇りつめたときとおなじ速度で落下し、さびれていった。数年前、はじめて訪れたときは驚いた。坂の多い街だった。くだってのぼって、おりてあがって──まるで土地の地形それ自体が、過去の記憶をなんどもなんども反復しているような。
この土地に生まれたこどもたちは、何を見、何を求め、何を感じながら生きているのだろう、と思った。栄華と凋落を知っている、知りすぎている大人たちに囲まれて、この坂道だらけの街で育ったこどもたちは。
もちろん、私は実際の歴史を体験したわけでも、暮らしたわけでもない。いま述べたことはすべて、おおまかな知識とあいまいな印象にすぎない。それでも歩いてまわるうちに、実在の街によく似たかたちの「もうひとつの街」と、そこに暮らす二人の中学生が、頭のなかに生じはじめた。
優等生の女の子と、同じく成績上位の男の子が、ささいなきっかけから道から逸れ、快楽とともに斜面をころがりおちてゆく。ふたりは、勉強から、「上」の世界から、大人たちから、逃れようとあがきつづける。
かれらとおなじ十五歳のとき、私は小説を書くことによって世界から逃げていた。くりかえしの毎日、不安定な進路、そういうものすべてから逃れるために、ひたすら手を動かし、文字を紡ぎ、自分だけの不可視のジオラマをこしらえていたあの頃。
結局、大人になった今でも、ジオラマづくりは続いている。どこでもない場所にぽっかりと美しく浮かんだ、大小さまざまな都市の模型。それぞれの世界で、それぞれの登場人物たちが、たべたり歌ったり眠ったりしている。今回は、これまでとは少し毛色の変わった景色の街になったように思う。年齢に関係なく、箱庭を覗きこむようにして、物語世界を楽しんで頂ければ幸いだ。