薬丸 岳『こうふくろう』

薬丸 岳『こうふくろう』

コロナ禍の激動の時代を描きたい


 2020年初頭から世界中に蔓延した新型コロナウイルスは私たちの生活とそれまでの価値観を一変させました。人と繋がり合うことがよくないこととされてリモートワーク化が進み、外食や旅行はおろかスポーツ観戦やライブや映画の鑑賞などの娯楽も控えなければならなくなり、潤いのない窮屈な生活を強いられるようになりました。飲食店を経営している友人が多かった私は傍目に彼らの苦境を感じ取っていましたが、そういう私自身は幸いなことに作家という元々ひとりで作業する仕事であったためか、生活の変化やダメージをそれほど受けずに済みました。

 ただ、仕事上ではひとつの悩ましい問題に直面することになりました。それは今現在手がけている原稿、もしくはこれから手がける原稿にコロナ禍を取り入れるべきかどうかということです。外出する際は常にマスクをしているのが当たり前で、喫茶店や飲み屋で人と話をするのが非常識と思われる世界。これらの価値観を取り入れると、自由度のない作品になることが想像できます。登場人物は常にマスクをしているので表情の変化などを描写しづらく、また都道府県間の移動制限が叫ばれているのできわめて動きの少ない物語になり、他にも様々な制約があるでしょう。結果として、しばらくの間はコロナ禍を作品に取り入れないという選択をしました。ただ、自分の中ではいつかコロナに翻弄された時代を描きたい、コロナ禍だからこそ描ける物語を作りたいという思いがくすぶっていました。

 2022年前半、夏から始まる「週刊ポスト」での連載の打ち合わせをしていたとき、「宗教を題材にした薬丸さんの作品を読んでみたい」という担当編集者さんの言葉に触発され、それまで胸の中にくすぶっていたコロナ禍を描きたいという思いが混ざり合い、『こうふくろう』が生まれました。

 先ほど、コロナ禍を取り入れると自由度のない作品になるかもしれないと危惧していましたが、結果的にはそんなことはありませんでした。むしろこれまでの自分の作品よりも容赦のないダークでショッキングな物語になったのではないかと思います。

 2025年の今となっては、私も含めて多くの方たちからコロナに翻弄された日々の記憶が薄れているのではないでしょうか。そんな方々にぜひこの作品であの頃のことを追体験していただきたいです。そして、忘れたくても決して忘れられない物語だと感じていただけたなら著者として本望です。

  


薬丸 岳(やくまる・がく)
1969年兵庫県生まれ。2005年に『天使のナイフ』で第51回江戸川乱歩賞を受賞しデビュー。16年に『Aではない君と』で第37回吉川英治文学新人賞、17年に「黄昏」で第70回日本推理作家協会賞(短編部門)を受賞。著書に『刑事の約束』『友罪』『神の子』『罪の境界』『刑事弁護人』『最後の祈り』『籠の中のふたり』などがある。

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こうふくろう

『こうふくろう』
著/薬丸 岳

田口幹人「読書の時間 ─未来読書研究所日記─」第31回
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