◇自著を語る◇ ドリアン助川『水辺のブッダ』
ホームレスの男と、風俗嬢が主役だ。情ではなく、哲学を柱としたこの物語に、『水辺のブッダ』とタイトルをつけた。
今世紀の初めの頃、私はマンハッタンに住んでいた。摩天楼の隙間から覗く暗く蒼いイーストリバーに想念を送っていたのは、日米混成バンドを組んで一暴れしようという魂胆があったからだ。
だが、三年近い奮闘叶わず、一文なしとなって日本に戻ってきた。そして、多摩川の水面が見えるアパートで暮らし始めた。
仕事にもありつけず、我が人生は試練の時を迎えた。等しく我が国も不況のど真ん中であったか、目の前の河川敷にはブルーシートのシェルターが並んでいた。
私は河川敷の住人との間に、さほどの差を感じていなかった。仕事の見通しが立たない以上、こちらもテント暮らしになる可能性が充分にあったからだ。
社会をくるんでいる薄膜からはじき出されそうなその頃、台風が関東地方を直撃した。多摩川は急激に増水し、土手際までの濁流となった。水が引いたあと、河川敷にはたくさんの小さな池ができた。クチボソやフナなど、無数の魚たちが取り残された。
私は魚たちをバケツですくい、流れに戻そうとした。じっとしていると、人生が崩壊寸前の日々にあるという焦燥感に飲み込まれてしまいそうだったからだ。いや、すでに飲まれて、おかしくなっていたのかもしれない。小魚たちを川に戻したところで、なにがどうなるわけでもない。でも、見殺しにはできなかった。
すると、「なにしてるんだ?」と河川敷の住人に問われた。魚を助けていると言うと、その野宿者はしばらく考えたあとで、「手伝うよ」と腕まくりをした。二人で魚の入ったバケツを運ぶうち、さらに別の野宿者たちが加わった。互いにあまり話はしなかったが、計四人で日が暮れるまでその作業に没頭した。
このおじさんたちか、あるいは別の野宿者かはわからないが、その後、河川敷の彼らが連続して殺される事件が起きた。
ホームレスへの暴力事件が頻繁に起きた頃だ。都庁周辺のベンチも彼ら彼女らに安息の場を与えないよう、突起が飛び出したいかついものに変わった。そして為政者は、「美しい国」という言葉を好んで使いだした。
社会一般へのなにがしかの違和感が私には常にある。それがこの物語の執筆のきっかけになったことは間違いない。ただ、そこに盛り込んだのは、単純な主張や怒りではなく、私たちがこの世に在るということに関する、様々な方向からの思索だ。
若い頃に三度、インドを歩いた。そのうちの二度は釈尊が悟りを開いたと言われるブッダ・ガヤーを巡る旅で、ずいぶん途方に暮れ、汗も流れ、ひどい病気もした道程だった。存在の根本は何なのか。時とは何なのか。祈りには力があるのかないのか。そうした問いがつきまとう旅でもあった。
今でも問いはあり、心の袋がやぶけてしまうと、私は多摩川の川原で暗くなるまで座り込んだり、アカシヤの林に寝転がって、輝きの粒子のように降り注ぐ花びらに埋もれたりする。インドの旅と同じで、ひたすらに感じたり、考えたり、形なきものを言葉に変えようとして悶々とするのだ。
そうして得た答えのひとつに、「単独で存在できるものはない」という我流の真理がある。すべてが網の目のように絡み合った関係のなかで存在たり得る。そのことの発見は、私に世界を再構築させ、ある種の安寧を与えてくれもした。
私は『あん』という小説で、ハンセン病患者による哲学の開闢を描いた。この物語は世界で読まれるようになり、バンドでは叶わなかった国境を超えるという夢を実現させてくれた。今回の『水辺のブッダ』は、その哲学の扉の向こうにある、思想の本体を書いたものだ。
なぜ私たちはここにいるのか。その問いを持つ皆さんに、ぜひ読んでもらいたい。