滞米こじらせ日記~愛しきダメな隣人たち~ 桐江キミコ 第5話 鳴きまね名人②
鳥の鳴きまねが上手な笑田さん。
定年後、アメリカへやってきた事情とは?
鳥の言語は万国共通なのか、笑田さんがブルックリンの道ばたでメジロのまねをやったとき、木に止まっていた野鳥が小首をかしげて、笑田さんの鳴き声に聞き惚れていた。鳥が人間の鳴き声に聞き惚(ほ)れるなんて、初めて見た。
笑田さんは、メジロのほかに、シジュウカラとハトの鳴き声をまねできる。わたしにできるのはカラスぐらいだ。そういえば、むかし住んでいた東京のマンションは一時カラスだらけだった。ある朝早く、おじさんが外でガハガハと下品に笑っているのが聞こえて目が覚めたことがあった。笑い声のあとは、携帯のプルルルルという音が聞こえてきて、朝っぱらからだれだろうとカーテンを開けて外を見たら、犯人はカラスだった。カラスは──少なくともそのカラスは、オウムみたいに物まねができたのだ。
笑田さんは生き物が好きなようで、ニューヨークにいるときは、パンを持ってハドソン河畔やセントラル・パークへ行って鳥やリスに食べさせるのが日課みたいだった。
若い同級生たちは、笑田さんという人は、子供がそのまま大人になったみたいな人で、悩みなんかさらさらないと思っていただろう。現に、わたしだってそうだった。いろんなところへふらっと遊びに行けて楽しそうだな、とも思っていた。
でも、いつもニコニコしていて、フレンドリーでだれからも好かれる、気のいいおじさんである笑田さんであったって、表面がどうあろうと、当たり前のことだが、上っ面からは心の中の風景なんかわからない。笑田さんがあれほどうまく鳥の鳴きまねができたのは、そして退職してからわざわざアメリカに来て英語の勉強を始めたのには、それなりの事情、があったのだ。
笑田さんは、最大手のメーカーに就職して、文字通り、日本の高度成長と共に生き抜いてきた人であった。営業であったから、職場結婚した奥さんに家のことはすべてまかせて、連日接待の超多忙の毎日を突き切ってきた。怒涛(どとう)のような40年を無我夢中で過ごして、子供も巣立ち、定年退職して子会社に出向することになったとき、奥さんがガンでぽっくり亡くなった。末期ガンとわかって、入院してあっと言う間だったという。
本当なら、子供が巣立ち、てんてこ舞いの現役時代も終わり、時間とお金にゆとりができて、これからゆっくり夫婦水入らずで余生を楽しむはずの矢先のことだった。笑田さんは、間もなく子会社も辞め、毎日行かねばならないところも、しなければならないこともなくなり、時間を持て余して、孤独と向き合うようになった。営業一筋でやってきて、いつも人に囲まれていた人だから、周りに人がいないことにはどうも居心地が悪い。ひとりきりで自分と向かい合って生きてきたことのない笑田さんは、いきなり退職後の空洞と伴侶亡きあとの空洞に襲われて、どうしていいかわからない。奥さんが亡くなってから3年は何もする気にならなかったと笑田さんは言った。