思い出の味 ◈ 椰月美智子
今から二十年以上前の話である。当時、父は入院していた。咳がなかなか治らないと言って検査に行き、そこで肺がんが見つかったのだった。
すでに手術が出来る状態ではなく、担当医師からは余命半年です、と言われていた。病名は父に知らせていなかった。
その日は入院中の一時帰宅で、母とわたしは病院に父を迎えに行った。五月だったと思う。薄曇りの空で、ほんのり暖かい日だった。
お昼の時間帯だったこともあり、家に帰る前に、お蕎麦屋さんに寄ることになった。父が食べたいと言ったのかもしれない。その頃はまだ食欲もあって、父は天ぷら蕎麦を注文した。母もわたしも同じものを頼んだ。もり蕎麦と、海老やキスに大葉や茄子の天ぷら盛り。
わたしは二十六歳で、そんな状況でなかったら、両親とのランチなどありえなかったと思う。わたしは恋人とのあれこれに忙しく、けれど恋人のことを親に話すような間柄ではなく、ただぼうっとその場に同席していた。
お蕎麦が運ばれてくる前だった。隣のテーブル席のおじさんたちが煙草を吸いはじめた。煙がわたしたちのテーブルに漂ってきた。当時はどこの店でも、たいてい煙草が吸えた。
「いやだわ。やだね」
母はそう言って、漂ってくる煙を大仰に手であおいだ。父のほうに煙がいかないよう、こっちに向かってくる煙を、小さな手で必死に阻止した。
「いやあね、いやだわ」
何度もそう言って、何度もあおった。しまいには、メニューを取り出してバタバタとあおった。
そんな母の姿に、わたしは、父に本当の病名がバレないといいけれど、と思っていた。
お蕎麦は透明っぽい白色の更科蕎麦で、ほんのりと甘く、濃いつゆとの相性がよかった。天ぷらの衣もサクッと揚がっていたし、海老も大きかった。
美味しいね、と言いながら食べた記憶はあるが、真っ先に思い浮かぶのは、母が煙をあおる姿と、ちょっと困ったような父の顔ばかりなのである。