私の本 第6回 大澤真幸さん ▶︎▷03

「この本のおかげで、いまの私がある」をテーマにお話を伺う連載「私の本」。今回は、社会学者の大澤真幸さんにご登場いただいています。

高校時代、不登校になったという大澤さん。そんなとき、1冊の本が大澤さんを元気づけてくれたといいます。「もしこの本がなかったら、自分はひきこもりになって高校を中退していたかもしれない」とまでおっしゃる1冊とはどのような本なのでしょうか。

私の本 第6回 大澤真幸さん ▶︎▷03

他人は誰も自分を理解してくれないと高校で不登校に

 僕は長野県松本の出身で、国立の信州大学教育学部附属松本小学校、中学校で一貫教育を受けました。高校はなかったので、地元の進学校へと進んだのです。

 でも高校から僕は不適応というか、いまでいう不登校のような状態になってしまったんです。

 誰もが当然に思っていることより、ひとつ深いことを話しあう友人が中学時代にはいて、その会話のなかで精神の緊張感を楽しんでいたのだけれど、高校になるとそういう友人との関係が一度キャンセルされて、なくなってしまいました。

 それで僕の考えることなんて誰にもわからない、などという気分に襲われて、1学期から早くも学校に行くのが嫌になってしまったんです。

 夏休みが明けてもやはり行く気にならなくて、このままだと本格的に不登校になってしまうという時期に読んで、精神の救いになったのがニーチェの『ツァラトゥストラ』でした。

 たまたま父親の書庫にあったその本が、自分に呼びかけているような気分がして、予備知識もなしに読み始めたのです。この本はとても難しい内容なので、当時の自分がすべてを理解できたとは思えないのですが、自分にとってはものすごく響くものがありました。

「ツァラトゥストラ」の思想が生きる源泉になる

 この本は10年間も人里離れたところで隠遁生活を送っていたツァラトゥストラという人物が突然、立ち上がって人々のなかに戻り、寓話的に哲学を語るという内容です。

 太陽が人々に惜しみなく光を注ぐように、自分も人々の前に話しに行かなければいけないと、山を降りていく。

 そして「あえて落ちていかなければならない」と、「没落」という言葉を使うんです。それがなにか、僕の精神を著しく高揚させたんですね。

大澤真幸さん


 自分のことなんか誰もわかってくれないと思って家にこもり続けていたけれど、外に出て行く力の源泉になったわけです。

 どんな価値観も一方では信じられないということがあって、しかし同時に、そういう否定を媒介にしてなお人生を肯定するにはどうしたらいいかという考え方、永劫回帰の思想をツァラトゥストラは会得します。それを僕も、僕なりに理解していったわけです。

 中学生のころから文章を書くのが好きだったから、自分用のノートにツァラトゥストラの真似ごとの文章を綴ったりして、それで元気になっていった。

 もしこの本がなかったら、自分はひきこもりになって高校を中退していたかもしれないとも思ったりします。

 いまでも、あまり調子がよくないときは、このツァラトゥストラが山を降りていく序文をよく読み返すんですよ。

注がついた、文章も美しい中公文庫版を愛読

  意識的にも、無意識的にも、この本に大きな影響を僕は受けたと思っています。それなのにこの本を、自分の著書で引用した回数はあまり多くないのですが、僕の事実上の最初の著書『身体の比較社会学』の冒頭には、ツァラトゥストラが山から降りたあとの最初の演説を引用しています。

 のちに社会学者として仕事をするうえでの哲学的アイディアの前提がツァラトゥストラであり、ニーチェへと繋がっているという感覚が僕のなかにはあるのです。

 その『ツァラトゥストラ』は、はじめは筑摩書房の世界文学全集のなかに収録されているもの(浅井真男訳)を読みました。でも、そこには一部しか翻訳されていないんですね。

 その後、手にしたのが中央公論の『世界の名著』の中の「ニーチェ」で、これは全訳されています。最近、この手塚富雄訳が中公文庫になりました。

『ツァラトゥストラ』はすべてがたとえ話なので、丁寧な注がついていたほうが理解しやすい。注なしに読むとかなり苦戦しますから、初めて読む人には、注が多い邦訳版をお勧めします。

 手塚富雄さんの訳は文学的にもセンスがよくて、その意味でも読みやすいと思います。 

『金閣寺』に見るアポロン的なものとディオニソス的なもの

  高校1年生で、もうひとつ読んで強烈なインパクトを受けた本が、三島由紀夫の『金閣寺』です。実際にあった事件を三島流にカスタマイズしているわけですが、僕には美をテーマにした哲学的小説に感じられました。

 たとえばテーブルであれば水平であることに、なにかしら良いとされる理由があるわけです。テーブルには目的があるからです。でも美はちがう。「○○だからいい」という理由づけを可能にするような外部の目的はない。それなのに、美は、やはり「いい」のです。

大澤真幸さん


 あるものがそのまま肯定されて、価値があると感じられたときに、人は「美しい」という。金閣寺はその美そのものを具現しているわけですが、主人公はそれをなぜか燃やさなければいけないと思いに取り憑かれるんですね。

 美を破壊することが、よりいっそうの美になるという逆説、いわば悪魔的思想で、僕は魅惑されました。

 高校時代、東大文学部を卒業した、30代前半の世界史の教師が僕の担任で、その先生をとても尊敬していたんです。

 先生は社会科学研究会というサークル活動で読書会を開いていて、そこに参加していろいろな本を読んでいました。

 その先生とあるとき、『オイディプス王』について話し合ったことがあって、そのあと運命の過酷さ、悲劇にも興味を持って、ニーチェの『悲劇の誕生』を読んだのです。

 そこにはギリシャの精神というのは、アポロン的な秩序だったものと、構成へと向かうベクトルと、酒の神ディオニソス的な陶酔や破壊的衝動と、そのふたつの拮抗によって成り立つと書かれています。

 さっきの『金閣寺』でいうと、完全な美でアポロン的な典型である金閣寺に、あえて火を放ち、破壊しなければいけないというディオニソス的なものが加えられていく。『金閣寺』のそういった側面についても、先生とよく議論しました。

 その三島が割腹自殺をしたのは、僕が小学六年生のときです。それが僕にとって思想的な問題になったのは、『金閣寺』に感動した高校生になってからです。あれほどすばらしい小説を書く人が、これほどバカらしいことをするのかと、自分のうちに不調和が生まれて、これは困ったなと思っていたんです。

『豊饒の海』の衝撃から『三島由紀夫論』へ

  もうひとつ、三島についてはわからないことがあって、それが絶筆となった『豊饒の海』なんですね。全四巻の大長篇小説です。読んだのは高校3年生でしたけれど、そのエンディングに驚愕しました。

 これは輪廻転生がテーマで、20歳で死ぬ松枝清顕という若者が、次の巻の主人公に輪廻転生していく。各巻の主人公は、同じ魂の輪廻転生した姿で、20歳で死ぬ運命にあります。しかし、最後の巻にはどうもこれは生まれ変わりではないと考えられる偽者が出てきます。ここまでだったら、たいして驚きません。

 その輪廻転生をずっと見続けてきた本多という人物がいます。彼は第一巻の主人公の松枝清顕の学友で、当然、全巻に登場する。その本多が、第四巻の最後に、清顕の想い人だった女性に会いにいくのです。彼女は、清顕への思いを断ち切って出家し、尼僧になっている。本多は、その女性と再会し、清顕の思い出話をする。彼女は静かにその話を聞いてくれるのですが、最後に何と自分は「清顕なんていう人は知らない」というわけです。自分は間違いなくその「綾倉聡子」だが、松枝清顕なんて人は知らない、と。

 ということはどういうことなのか。清顕はじつはいない、ということになる。清顕が存在しないなら、各巻の主人公も存在していなかったことになる。それどころか、この自分すら存在しないことになるのだと、80歳を過ぎた本多は茫然自失するわけです。そこで小説は終わる。

 これは、まったく破壊的、自己否定的な結論です。読者は、自分たちは結局なにを読まされていたのかと感じる、まったく詐欺のような小説です。

 これをどう考えたらよいのか。それについてやっと最近、僕なりの解が得られて、それで『三島由紀夫論 ふたつの謎』(集英社新書)を書きました。三島には高校1年生で『金閣寺』を読んで以来、借金があるような気がしてきたけれど、それをいまやっと清算できたように感じています。

(つづきは近日更新予定です)
 

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大澤真幸(おおさわ・まさち)

1958年生まれ。社会学者。個人思想誌「THINKING「O」」主宰。2007年、『ナショナリズムの由来』で毎日出版文化賞を受賞。15年には『自由という牢獄』で河合隼雄学芸賞を受賞した。著書に『不可能性の時代』『〈自由〉の条件』『〈問い〉の読書術』『考えるということ』『〈世界史〉の哲学』『サブカルの想像力は資本主義を超えるか』、共著に『ふしぎなキリスト教』『おどろきの中国』『憲法の条件』『げんきな日本論』『21世紀の暫定名著』などがある。