私の本 第6回 大澤真幸さん ▶︎▷04
「この本のおかげで、いまの私がある」をテーマにお話を伺う連載「私の本」。今回は、社会学者の大澤真幸さんにご登場いただいています。
本を書いたり、読んだりすることで、得られることは決して「答え」ではない。それではいったい、何が得られるのでしょうか?
貴重なお話、最終回もじっくりお楽しみください。
本を書くことは、自分自身への問いでもある
僕は社会学の本や論文を書いていますが、それはじつは、自分自身への問いでもあります。生きる意味はなにかを、自分自身に問いかけているのです。
そういう学者としての考え方は、東京大学の社会学の教授だった見田宗介先生との出会いが大きかったと思います。
当時の見田先生は学者としても脂が乗っていた時期で、僕が大学に入った年に『現代社会の存立構造』と『気流の鳴る音』という著書を立て続けに出版されました。
『現代社会の存立構造』は難しい本ですが、マルクスの『資本論』を独自に読み解くことを通じて、現代社会を成り立たせる骨格となる仕組みを提示していて、『気流の鳴る音』には生きるための哲学が書かれています。
見田先生とお会いしてつくづく実感したのは、本を書くというアカデミックなことを通じて、自分の人生と対峙できるんだ、ということでした。
それまでは、学問はあくまで学問であって、人生にまつわることとは別問題だと思っていたんです。でも、じつはそれがつながっていたとわかったんですね。
たとえばオウム事件について考えることも、僕にとっては自分自身への問いでした。オウムを単なる知的好奇心で語ったわけではない。自分にとって生きることはなにか、という延長のなかで、オウムについての関心も出て来たわけです。
オウムのもっとも中心的なメンバーは僕とほぼ同年代で、日本のなかでもわりと高等教育を受けて育ったという意味で、生育環境も、背景になった社会的雰囲気も似ています。
僕はオウムの本を書いたとき、何人かに会って話を聞いたけれど、率直にいってみな魅力的でした。
それはお行儀のよいいい人、という意味ではなくて、もしこういった事件さえ起きなければ、この人たちとは刺激しあえる友だちになれたかもしれない、とすら感じたのです。
極論すれば、自分もあと一歩でその世界に馴染んでいたかもしれないということです。
大事なのは答えではなく、問いを見つけること
オウム事件に対する当時の多くのワイドショウ的な解釈などもそうでしたが、いまの日本はものごとを紋切り型の言葉や思考、つまり表面で解決しようとする雰囲気があります。でもじつは、本当の問題はもっと深いところにあるんですね。
その深いところまでいかずに、ほんとうの問題を解決できるならいいけれど、現実はそうはいかないわけです。
たとえば残業手当がでないとか、正社員になれないといったことが悩みだとする。しかし、その悩みを完全に解決しようとしてもっとも深いところまで突きつめて考えると、資本主義における社会の労働とはなにか、というところにいきあたります。
その根っこまでいって、さまざまなことを相対化したうえで、はじめてものごとが見えてくるのです。
なんでもそうですが、すぐにわかった、と感じるときはたいてい浅い理解に過ぎません。いまの勉強はなるべく早く理解できることがいいとされていますが、そうではないのです。
自分の考えにつまずいたとき、真に重要なのは早急な答えではなく、問いを浮かび上がらせることです。なぜなら問いが提示されれば、人は前進できるからです。
本を読むとはまさにそういう経験で、問うべきことがここにあったんだと気づくというのが、読書のなによりの効能でしょう。
本のなかに隠れている問いと対話をすることで、その結果の答えが、自分自身に返ってくるのです。
読書をすることで世界が変わる経験をする
僕は一生のあいだに、絶対に経験しておいたほうがいいことが、ふたつあると思っています。ひとつは、この人のことが好きで好きで仕方ない、たとえ一瞬でも、この人のためなら人生すべてを奪われてもいい、と感じるほどの恋愛をすること。
そしてもうひとつが読書です。ある本を読むことで、世界の色や見え方が変わったという経験をすることです。
こういう経験は本を読むたびに得られるというわけではありませんが、何回かはそういう経験がないとその人生はかなり貧しいというか、気の毒だなと感じます。
人間の発明のなかでもっとも偉大なもののひとつは、文字です。その文字により、我々は先人と対話し、問いを見つけ、そして前へと進んでいくことができるのです。
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