第126回
樋口毅宏さん
東京パパ友ラブストーリー
寂しさを紛らわせたい気持ちが恋愛の一歩になることはある
樋口毅宏さん『東京パパ友ラブストーリー』

 小説『民宿雪国』から新書で発表した『タモリ論』まで、話題作を発表してきた樋口毅宏さんが、新作に選んだのは育児や夫婦、性差をめぐるさまざまな問題。それを『東京パパ友ラブストーリー』というタイトルからも想像がつく通り、育児を通して知り合った父親同士の不倫の恋を主軸にした、異色作だ。

二〇一六年の引退宣言は

 それぞれ子どもを保育園に送り迎えするうちに出会った二人の父親が、ほどなく恋に落ちて──樋口毅宏さんの『東京パパ友ラブストーリー』は、意外性のある設定のなかに、現代的な問題が詰め込まれている。

 しかし、本作について話を訊く前に、確かめたいことがある。樋口さんは二〇一六年に作家引退宣言をしているのだ。その後、それ以前に書き溜めていた大作『アクシデント・レポート』を発表、雑誌やWEB媒体でも育児コラムなどを執筆していたものの、今回しれっと新作小説を発表したのはどういうことなのか。いや、あの引退宣言は何だったのか。

「……。あの頃は、倦んでたんじゃないでしょうか。小説書いても全然売れないし、赤ん坊は泣き止まないし、奥さんも産後ナーバスになっていたし。当時は京都にいたんですが、東京以外の場所に住むのは生まれてはじめてだったし……いや。妻や子どものせいじゃないです。結婚していてもしていなくても、僕はきっとああいうふざけたことを言っていたと思います。小説を書いても反応ないし、面倒くさくなってしまって」

 今となっては「くだらないギミックだった」とうなだれる樋口氏。

「誰にも相談せずに宣言しちゃったから、妻にもさんざん罵られました。古くからの知人にも、"君の場合は小説自体がギミックなんだから、ああいうことはしなくていい"って言われました。僕は会社員時代から"やらかし"系だったんです。馬鹿丸出しだなと思います。かまってちゃんなんです」

 まあ、過去にも引退宣言をしながらも復活した創作家はいるが……。

「そうなんですよ。漫画家のジョージ秋山とか本宮ひろ志も、昔、漫画の中で引退を宣言しているし、長州力も引退宣言したことがあったし、あの人とかこの人とか(以下略)」

 先述の通り、完全に断筆したわけではなかった。引退宣言以降も、

「子どもを保育園に送って掃除とか買い出しとか終わったら、他にやることがないから結局書いていたんですよね。買い出しして掃除して小説書いて。その時に書いた中篇を『小説現代』に載せてもらって、短篇集にする予定だったのがボツにされたんです。その時に編集者に"他にもネタがあります"と言ったのが、パパ友同士のBLものでした。それを"書きなさいよ"と言ってもらえたんです」

 実際に子どもの保育園の送り迎えをするなかで、今回の小説を着想した模様。

「一昨年の九月に東京に越してきましたが、京都に住んでいる頃は一週間以上、妻と保育士さんとしか喋らないなんてことは普通にあったんです。東京に戻ってきてからもこの四年間、一人で飲み屋に行ったことは一回もない。女性との出会いなんてないんです。でも妻に"浮気してないよね?"って言われるんですよ。その時に、ふと男の人と浮気したらどうなるんだろうって思いました。僕はつねづね、"男はみんなゲイである"と思っていて。僕だってはじめて買ったシングルレコードはワム!の『ケアレス・ウィスパー』だったし、クィーンはもちろん、他のアーティストにしてもゲイだと知らないままにゲイカルチャーの中で育ってきたし」

 男性同士の恋を描いた映画は『ブロークバック・マウンテン』など好きな作品も多いが、昨年日本公開のヒット作『君の名前で僕を呼んで』はあまり好みではなかったという。ただ、『東京パパ友ラブストーリー』を書くにあたって、「あの映画を真似したんでしょ」と言われるかも、と危惧したそうだ。

「そしたら、それどころじゃないくらいドラマの『おっさんずラブ』が大ブームになったでしょう? 僕、いまだに怖くてあのドラマは見ていません。下手に見ていたら台詞とか引用しちゃいそうだったから」

タイプの異なる父親二人

 建築家の鐘山明人は、現在は仕事をセーブして育児にいそしんでいる五十二歳。妻の美砂は都議会議員で多忙な身だ。一方、有馬豪は三十歳にして渋谷にあるファンドマネージメント会社の若きCEO。ともに五歳の子どもを保育園に送り迎えするうちに二人は出会い、酒を飲む仲となり、ほどなく一線を越える。

 恋の話が主軸かと思いきや、男女それぞれの生き方選択という、現代的な問題が盛り込まれている。明人たちの育児の様子は著者本人の体験も反映されているようで、

「育児日記のコラムは実体験を書いたエッセイだとすると、これはその小説版ですね。世の中、"ゴミ出しなんてしたくないよ"って男や、週に一回ゴミ出ししただけで"僕も家事はやっていますよ"っていう男は多い。そういう男の人は、こういう男が当たり前に育児している本を出すことを苦々しく思うはず。男というのは会社に通って金を稼ぐものだと思っているのかもしれないけれど、そんな社会になったのはここ百年程度ですからね。世の中が変わったら人の生き方がどうなるかも分からないのに」

樋口毅宏さん


 ただ、息子を心から可愛いと思っている明人でも、自分の時間が欲しいと思う時はある。仕事を抑えている今、〈牙を折られてしまったような気がする〉とも。ここには、引退宣言した後の自身の実感もあるのでは?

「あると思う。小説やめて、作家やめて、財布は別々だけど妻が稼いでるからっていってイクメンをやっていたけれど……。明人に対して、それだけじゃおさまらないんでしょ? 家で洗濯もの干し終えたあとに、生きてる実感欲しかったんだろう? って問いかける気持ちがありました。お前はお前のやれることをやれよっていう……あれ、やばい、ちょっと泣きそう」

 と、当時を思い出したのか、しょんぼり。

「もちろん、仕事をせずに家のことをしていたいと望む男性だっていると思う。家事を完璧にやろうと思ったらキリがないし、毎日手をかけたご飯を作ろうと思ったら限りがないし。ただ、明人の場合は、それだけじゃおさまらなかったんでしょうね」

 明人の妻の美砂は都議会議員だ。テレビのニュース番組にもコメンテーターとして出演、政治問題、性暴力問題など多岐にわたって積極的に発言し、ネットで叩かれることも多いなかで闘っている。

「女性読者は途中まで、この人は自分たちの味方だと思って読むと思います。彼女はリベラルに振る舞って女性の社会進出を謳っているけれど、でも実は、彼女は男社会に迎合した考え方を持つ"名誉男性"の道を進んでいる。政治家って、公約全部を実現するのは難しいから、多かれ少なかれ妥協点を見出して魂を売り渡さないといけないところがある。一時のポストを得るためにそれまで言ってたことをまるきり変える人だって沢山いますよね。特に女性は、男に頭を撫でられないと上に上がっていけないし、しかも上がれる限界がある。美砂も、現実に翻弄されて"名誉男性"にならざるを得なくなっていくんです。なぜなら、女だっていうだけで嫌う人たちが沢山いるから。今、日本は世界各国の男女平等ランキングで過去最低の──四位。なのに"えっ、なんで? 日本ってそんなに女性の地位が低いっけ"っていう反応なのが日本の現状。昔エロ本を作っていた奴がどの口で言うのかって感じですが、日本は女性差別大国ですよ」

 明人が恋をする豪は、父親から会社を引き継ぎ、ファンドマネージメントの会社を経営する三十歳。事業は順調で、満たされた生活を送っているように見えるが、

「彼もなりたい自分になれてはいない。自分の意志で生きてきたように見えて、実はそうではない、という人です。父親の影響も大きかったでしょうね」

 豪の妻のまなみは、周囲に「美人」「スタイルがよい」と称される、料理上手な女性。

「『VERY』に出てくるような、おしゃれで素敵な奥さんになりたいと思っている。そういう存在を目指すのは悪いことではないと思いますよ。女性だって男性だって、庇護されないと生きられないという人はいますから。ただ、この人は、そういう理想的な自分になれないとなると、瓦解しちゃう人なんです」

 子どもを育てながら、それぞれの生き方を模索している四人の男女。夫婦円満に見える彼らだが、夫同士は陰で逢瀬を重ねていく。

「日常に倦んでいた明人にとって、恋愛は最初、はけ口の意味合いもあったのかもしれません。でも人を好きになるなんて理由はないですよね。ただ、はけ口だって悪くないと思う。日常を変えたくて結婚する人だっているし、仕事に疲れて彼氏彼女を欲しがる人もいるし。寂しさを紛らわせたいという気持ちが恋愛の一歩になることは全然ある」

 ただなんといっても、彼らの恋は「不倫」なのである。昨今は相当なバッシング対象となる事案であるが、

「なんであんなに裁くんでしょうね。当事者たちが裁くのは当たり前だけど、他人があそこまで叩くのは理解できない。ネットができてから悪意って可視化されましたよね。叩いている人間は"いや、自分は正義を行っているつもりだ"と思っているかもしれないけれど、善意とか、もっともそうなことって、実は危険」

読みやすさを重視した作品

 読み手によって、誰のどこにシンパシーを感じるかは、それぞれのはず。

「それはもう、読者によって見え方が違うように、まだら色に書きましたから。主要人物以外の人に親近感を抱く人もいるだろうし。自分たちが生きている社会は複雑で、(映画の)『羅生門』と同じで、真実は人の数だけあるのだから、そうなりますよね」

 明人らの関係は、やがて重大な局面を迎える。最初から不穏な影がちらついているが、こうした展開には、どのような構想があったのか。

「二人の関係がどうなるかについては……人の心に残るようにと思って、ああなりました」

 今回は、「これまでの樋口毅宏を知らない人に向けて書いたので、読みやすさに重点をおきました」という通り、濃厚ながらもテンポよく読める。デビューしてから十年目。新たな読み心地の作品を発表した今、もうあの引退宣言のことは気にしなくてもいいのか。今後の作品について訊いてみた。

「今は何も思い浮かばないんです。いえ、いつも突然はっと何かが浮かんでスイッチが入って書かせられる感じなので、今の時点では何も浮かんでいない、ということですね」

 と、また小説を書くと思わせる発言の後で、「また編集者もやりたいなあ」と嘯く。油断ならない人である。

東京パパ友ラブストーリー
講談社
定価:本体1400円+税
 
樋口毅宏(ひぐち・たけひろ)

1971年東京都生まれ。2009年『さらば雑司ヶ谷』で作家デビュー。11年『民宿雪国』で第24回山本周五郎賞候補および第2回山田風太郎賞候補、12年『テロルのすべて』で第14回大藪春彦賞の候補に。ほかの著書に『日本のセックス』『甘い復讐』『愛される資格』『アクシデント・レポート』など多数。

〈「きらら」2019年3月号掲載〉