著者の窓 第50回 ◈ 【特別鼎談】穂村弘 × 小島なお × pha

短歌の歴史はアンソロジーの歴史
穂村 弘(以下、穂村)
最近は短歌ブームと言われていて、本屋さんに行くといろんな歌人の本が並んでいるけど、個人の名前で歌集が出せるようになったのって割と最近のことなんです。与謝野晶子の『みだれ髪』が1901年。100年以上も前じゃないかと思うかもしれないけど、短歌の歴史って1300年から1400年もあるから、全体の10分の1ほどでしかない。それまでは歌集といえばアンソロジーだったんです。『万葉集』も『百人一首』も『古今和歌集』もそうだよね。実際ここ1、2年はアンソロジーの出版も盛んで、梅﨑実奈さんの『鴉は硝子のフリルで踊る』とか、髙良真実さんの『みんなの近代短歌』とか、左右社の編集者・筒井菜央さんが手がける一連の「うた」シリーズとか、いい本が続けて出ています。僕も「近現代短歌」や「短歌ください」シリーズの文庫化など何冊か出したけど、これは自然発生的な現象で、誰かが仕掛けたわけではないですよね。
小島なお(以下、小島)
筒井さんのアンソロジーは装丁もおしゃれで、新しい流れを感じますよね。特定の歌人が好きで手に取るというよりも、その時々の気分にフィットした一首を見つける本というか。
穂村
昭和の頃のアンソロジーなんて、歌人の顔写真が掲載されていたもんね。僕の本もそうだけど、最近のアンソロジーはそういう押し出し方はしない。
pha
僕は本屋で働いているんですけど、アンソロジーはやっぱり人気です。これから短歌を読んでみようという人が、最初の一冊として手に取っているという印象ですね。贈り物にもちょうどいいみたいで。

小島

pha

小島

穂村
pha
誰が選んでも似たものになりますよね。評価の定まった歌から選ぶとなると。
穂村
それはそれで価値あることだけど、そうは言っても短歌の歴史においてあまり言及されてこなかった歌にも、はっとさせられる一瞬があるんですよ。今まで意識に上らなかった歌と、あらためて出会い直すというかね。「短歌のガチャポン」シリーズでは、そういう歌を忘れずにすくい上げようと思っています。
pha
あえてベストを外そうとしているな、という穂村さんの強い意志を感じました(笑)。冒頭に置かれているのが葛原妙子の「東京は大き魔なれば魔のひとりわれのくるまの迅速なりき」。葛原のベストを選ぶとしても、まず挙がらない歌ですよね。
穂村
あえて外して選んでいるわけではないんですよ。根本的な性格の問題で、この世界には我々の知覚できない、何か大きくて得体の知れないものがあるんだ、というノリには抗えない。そこを外してしまうと、自分が選ぶ意味もなくなってしまうしね。

pha
東京が「大き魔」だと言われても、ぴんとこない人もいるかもしれませんよね。
穂村
でも逆に短歌をまったく知らない人であっても、ここで詠われていることが直感的に分かる人、東京は魔の都なんだという視点にぐっとくる人もいるはずなんですよね。この本ではそういう人たちとも知り合いたい。
小島
セレクトで驚いたといえば、屋良健一郎さんの『KOZA』の「雪の坂下ればフードをつかみくる人よ振り返らざれど 好きだ」ですね。沖縄の歴史や生活を詠んだ『KOZA』は、戦後80年の今年(2025年)刊行されたこともあって、大きく注目された一冊です。穂村さんはそこからあえて恋の歌を採っている。あらためて読み返してみると、優れた恋の歌も多いんですよね。社会的なテーマをあえて外すことで、多くの人が見過ごしていた歌本来の魅力に光を当てられていますね。

穂村
おっしゃる通りなんだけど、屋良さんの恋の歌、たとえば「「私にはこんな大役できないや」五臓六腑をさらす標本」「「ちから、強いんだね」と言う声は鈍器のごとし抱き寄せた時」にも、力の非対称性みたいなものが詠まれていて、それは沖縄の強いられてきた歴史とも無関係ではないと思うんです。
pha
短歌専門誌で屋良さんを取り上げるとすると、社会的なテーマに踏み込まざるを得ないでしょうけれども、『短歌のガチャポン、もう一回』だと恋の歌として紹介できる。アンソロジーの良さですよね。
青春に甘い? 穂村弘の選歌基準
穂村
僕は良いと思ったものはしつこく誉めるタイプで。今回選んだ pha さんの「同居人とその恋人が眠っている横で静かに履歴書を書く」もずっと良いと言い続けているんですよ。
pha
穂村さんくらいですけどね、そんなに誉めてくれるのは。

穂村
若いカップルの横で書くのが、手紙でも日記でもなく履歴書っていうのが良いよね。短歌にはこの単語が出てきたら大抵成功するっていうワードがいくつかあって、履歴書はそのひとつだと思うんです。社会と個人が対峙する時の、ある種の苦さを孕むものだからかな。
pha
これは大学の学生寮に住んでいた頃に詠んだ歌で、家賃は4,000円、4人相部屋で冷暖房なしというおんぼろの寮だったんですけど、年下の同居人の一人がある日彼女を連れてきて、二段ベッドの下で静かに眠っていたんですよ。自分は就職活動の時期で、その横でせっせと履歴書を書いていた。
穂村
美しい光景。僕は人の良いところを見抜く才能があると思っているんだけど、pha さんにはそういう守護天使的な面があるよね。そこが pha さんの人気の秘密じゃないですか。
pha
自分にとってはそこまで印象の強い歌ではなかったんですが、言われてみると僕らしい歌なのかもしれません。
小島
この歌に詠まれている人たちは、まだ何者でもない匿名の若者たちですよね。「同居人」や「恋人」には名前がないし、履歴書を書いている人物もこれから社会と本格的に関わろうとしている。そういう透明性みたいなところも、魅力だなとあらためて感じました。

pha
確かに当時は20歳そこそこで、どこにも属していない感覚はありましたね。今だったらこうは書けない。この感覚は中年になって失われてしまいました。
小島
穂村さんとは公募の選考でご一緒する機会も多いですけど、青春に対して点が甘いんですよね(笑)。大人になると失われてしまう時間感覚や身体感覚に対する慈しみの念が、人一倍強い方なんだなと感じます。
穂村
それはあるかも(笑)。小島さんの「シーラカンスの標本がある物理室いつも小さく耳鳴りがする」もまさに青春の歌ですよね。耳鳴りがするのは物理室という特別な作りの部屋と関係があるのかもしれないけど、それ以上に主観的なものだと思うんです。寺山修司が「かすかなる耳鳴りやまず砂丘にて夏美と遠き帆を見ておれば」と詠んだのと同じ、ある年齢層にしか聞こえない耳鳴り。

小島
解説に書いていただいた「若者にしか聞こえない時の轟音」という表現にぐっときました。そうか、あれは時の轟音だったんだと。
pha
十代の頃に詠んだ歌を、大人になった今ふり返ってみてどうですか。
小島
気恥ずかしいです。第一歌集(『乱反射』)の頃はまだ純粋に短歌が好きで、面白くて、その気持ちがピュアに出ている分、下手だけど微笑ましくもあります。40歳が目前になって、少し客観的に見られるようになったのかも。むしろ第二歌集(『サリンジャーは死んでしまった』)や第三歌集(『展開図』)の頃の方が、レトリックに凝ってみたり、自分をこう見せたいという意識が感じられて恥ずかしいですね。穂村さんはそういうことありません?
穂村
数年前に第一歌集(『シンジケート』)の新装版を出してもらった時は、やっぱり猛烈に手を入れたいという思いに駆られましたね。でもそれをやって歓迎された例は過去にないから。読者は恥ずかしさも含めて面白がっているのであって、どこに出しても恥ずかしくない作品なんて、誰の心も打たないのかもしれない。
AI時代に求められる短歌
小島
「短歌のガチャポン」シリーズは石川啄木クラスの大家から、新聞の短歌欄の投稿者まで幅が広いですけど、選ばれた歌を読むとどれも穂村さんっぽいんですよね。これほとんど穂村弘の世界じゃん、って思います。
穂村
それは大事なことだと思っていて。その人が何を良いと思っているか、明確なアンソロジーが好きなんですよ。僕が歌を選ぶ基準は、まず変なことが書かれているかどうか(笑)。いや、これだけ短歌の歴史がある中で、まだ誰も書いていない変なことを書くのは大変なことですよ。単語レベルでも「この語は短歌で初めて見た」というものに出会ったら、アンソロジーに採ってしまうと思う。
小島
最近、「ウィキペディア」に掲載されている「曖昧さ回避」という言葉を詠んだ歌に出会って、その発想はなかった! と衝撃を受けました。ネットでしょっちゅう目にしていたのに、短歌に使おうとは自分では思わなかった。
pha
今回採られた歌では、「夜はつらい しかしロボット掃除機がベッドの下に潜っていった」(中川智香子)にびっくりしました。特に「しかし」の使い方。穂村さんも解説で「今までの短歌が表現できなかった、もしくはしようとも思わなかったゾーン」が描かれていると書かれていますけど、短歌でこういう接続詞の使い方はあまり見たことがないし、それで面白いのがすごいと思いました。普通短歌では、接続詞を使わずに2つのものを並べて含みを持たせるんですよね。

穂村
数式の歌も良かったでしょう。「5+7+5+7+7=2²+3³」(富尾大地)。普通に数学の式として成立しているけど、「ごたすなな/たすごたすなな/たすななは/にのにじょうたす/さんのさんじょう」と音読するとちゃんと短歌になっている。数式の左辺が短歌の音数率になっているのが上手いよね。
pha
歌壇の世界では連作を発表して、歌集を出して、初めて歌人として評価されるという流れがありますけど、穂村さんはこの先歌集には入らないかもしれない一首の面白さを発見して、拾い集めている。短歌の幅を広げようという意識を感じます。
小島
音楽の世界ではすでにアーティストやアルバム単位では聴かれなくなっていますよね。配信サービスのレコメンドで流れてきた、名前も知らないアーティストの曲を楽しんでいる。短歌アンソロジーにもそういう面がありますね。
穂村
短歌はもともと「詠み人知らず」があるジャンルだしね。名前は消えてしまって歌だけが残る。そういうあり方にちょっと憧れたりもします。

小島
とはいえ短歌は私性と強く結びついてもいるじゃないですか。旧来の短歌の世界で育ってきた人間としては、連作や歌集の背後に歌人がいる、という読み方をすることで初めて受け止められる物語もあるんじゃないかと思うんです。古い考え方かもしれないけど、そういう楽しみ方が消えてしまうのは淋しい。
pha
完全になくなることはない気がしますね。この先AIがいくら上手い歌を作るようになっても、AIは私性を獲得できない。日記屋月日という日記専門書店を作った内沼晋太郎さんが、AIが完璧な文章を書くようになっても日記は人間しか書けない、と言っていたんですが、それと同じ意味で、人生に裏づけられた短歌は人間にしか詠めないもの。その魅力はなくならないのでは。
小島
さっきご自分でもおっしゃっていましたが、穂村さんは本当に他人の美点を見つけるのが上手いですよね。歌人は客観性に欠けていると言われることが多くて(笑)、それが才能の証みたいなところがあるんですけど、穂村さんは歌人でありながら客観性も持っている稀有な存在だなと、この本を読んでつくづく思いました。
穂村
サッカーってゴールを決めるのと同じくらい、アシストが重要なスポーツじゃない。短歌も同じだと思うのね。良い歌を作る人はもちろん必要だけど、誰も気づいていなかった歌を見つけてきて、広めるのも大事な役割。もっとお互いにアシストしあうべきだと思うんです。
pha
穂村さんは歌壇のアシスト王ですね(笑)。僕も枡野浩一さん、佐藤文香さんと一緒に『おやすみ短歌 三人がえらんで書いた安眠へさそってくれる百人一首』という本を作ったんですが、短歌になじみのない読者にも読みやすいこの手のアンソロジーが、もっと増えると嬉しいですよね。
穂村
そうそう。たとえ同じ歌を採ったとしても、選者によって光のあて方が変わってくるのがアンソロジーの面白さ。なおさんや pha さんの趣味が全開になったアンソロジー もぜひ読んでみたいですね。
穂村 弘(ほむら・ひろし)
歌人。1962年北海道生まれ。1990年、歌集『シンジケート』でデビュー。評論、エッセイ、絵本、翻訳など様々な分野で活躍している。2008年、短歌評論集『短歌の友人』で伊藤整文学賞、17年、エッセイ集『鳥肌が』で講談社エッセイ賞、18年、歌集『水中翼船炎上中』で若山牧水賞受賞。著書に『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』『世界音痴』『もうおうちへかえりましょう』『ラインマーカーズ』『短歌のガチャポン』他多数。
小島なお(こじま・なお)
歌人。1986年東京都生まれ。 コスモス短歌会所属。同人誌「COCOON」編集委員。2004年、角川短歌賞受賞。歌集に『乱反射』(現代短歌新人賞、駿河梅花文学賞受賞)、『サリンジャーは死んでしまった』、『展開図』。2025年12月に第四歌集となる『卵降る』を上梓。
pha(ふぁ)
文筆家、書店員。1978年大阪府生まれ。京都大学卒業。2007年に上京した後、「ニート」を名乗りつつ、ネットの仲間を集めてシェアハウスを作る。19年、シェアハウスを解散し一人暮らしに。著書に『どこでもいいからどこかへ行きたい』『できないことは、がんばらない』『パーティーが終わって、中年が始まる』他多数。現在は、東京・高円寺の書店・蟹ブックスのスタッフとしても活動。








