★編集Mの文庫スペシャリテ★『誤算』松下麻理緒さん

著者近影(写真)
★編集Mの文庫スペシャリテ★『誤算』松下麻理緒

 10年前に発表された松下麻理緒さんの『誤算』が、文庫で売れゆきを伸ばしています。大資産家の遺産を巡り、相続する家族たちと、大資産家に気に入られた看護師の策略が交錯するミステリ群像劇です。文庫が売れ出した時期とシンクロして、物語をなぞったかのような『紀州のドン・ファン』変死事件が起き、さらに注目されました。著者の松下さんは、Kさん・Tさんの共作ペンネーム。コンビのきっかけや『誤算』の裏話、待たれる次回作の話など、10年を経てブレイク中の作家に語っていただきました。

コンビのきっかけは大学の卒業論文

きらら……『誤算』、とても面白く読ませていただきました。ご共作スタイルのきっかけは?

松下T……私たちは大学の同窓生です。出会ってから長く友だちでいますが、他の友だちとのつき合い方とは、ちょっと違います。

松下K……独特な関係でしたね。学生時代から、女子トークとか、よもやま話ではなく、お互いに読んだ本の内容や、いろんな意見を真面目に話し合ったりしていました。

松下T……本の話をできる人は、大学ではKさんだけ、みたいな感じでした。話しだすといつまでも、話しています。卒業してからも、電話やメールで話しこんでいます。

松下K……ふたりで何かを書き出したきっかけというと、卒論になるかな。

松下T……そうだね。私たちは、大学で心理学を専攻していました。

松下K……実験心理学。勉強の関心も似通っていたんだよね。卒論は、否定文の考証を基に、いろいろ実験をしないといけませんでした。データを取るのに、ひとりじゃ難しいかなと。

松下T……じゃあふたりで書きましょうというので、共同執筆を始めました。

松下K……心理学科では卒論グループごとにプレハブの研究室が割り当てられたんです。共同の作業は、すごく楽しかった覚えがあります。

松下T……いま思えば、学部の学生が研究室をまるごと使わせてもらうなんて、贅沢な体験でした。あれが私たちのベースになっています。

松下K……大学を出てからも、面白い本を紹介し合ったり、仲のいい友だち関係は続いていました。仕事の方は、私は家裁調査官で、Tさんは放送関係に勤めていました。

松下T……先に小説講座で、物語を書くようになったのは私です。Kさんに私が書いたものを読んでもらったりしていました。ここがダメ、あそこがおかしいとか、ダメだしをされながら、改善点を探っていきました。

松下K……そのうち、割とすんなりと……。

松下T……「じゃあ一緒に書く?」ということになりました。

松下K……ふたりの共作で、初めて書き上げたのが『毒殺(ポイズン)倶楽部』です。それが鮎川哲也賞の佳作に入りました。

松下T……ひとりで書いていたときは、新人賞では最終選考止まりだったので、嬉しかったですね。その後に『誤算』を書きました。横溝正史ミステリ大賞の候補になって、テレビ東京賞をいただいたときは正直、びっくりしました。

松下K……こんなありきたりな話でいいんですか? という気持ち。書籍化してくださると聞いたときも、えっ!? という驚きでした。

松下T……テレビ東京賞はドラマ放送だけで、基本的に書籍としては出版されない方針だったんですね。でも当時の角川書店の社長のご意向があったのか、文庫で出してくださることになりました。予想外のことで、感激しました。

松下K……本来は書籍にもならないはずの作品が、発表から10年経ち、再評価いただけています。嬉しい驚きが、年月を隔てて続いています。

★編集Mの文庫スペシャリテ★『誤算』松下麻理緒

お互いのいいところを補い合えた

松下T……『誤算』の構想は、ふたりで何を書くか話し合っているなか、自然に「資産争いに巻きこまれる、住みこみの看護師」のアイディアが出てきました。

松下K……私は仕事柄、遺産や法律問題を扱うことが多かったので、全体の構成は私がつくっていきました。主人公の看護師のほか、いろんなキャラクターの描写は、Tさんと分担して書いていきました。

松下T……お互いのいいところを、うまく活かし合えたと思います。Kさんは家裁の専門家でもあるから、綿密な文章を書きます。それだと少し、読んでいると息が詰まり気味になります。私は口の軽い家政婦や、お金をせびる娘たちなど、人間味のあるキャラクターを担当して、物語を膨らませていきました。論理的な部分をKさん、論理に欠けている部分を、私が引き受けていたという印象があります。

松下K……「このキャラクターは私で、そっちのキャラクターはTさんの方が上手く描けそうね」と、振り分けながら進めました。バラバラに書いたものを、合わせた瞬間が、一番面白いんです。主人公の看護師・奈緒は、ふたりで補い合って生み出したといえます。

きらら……真面目で、几帳面なのに、ダメな男に引っかかって損をする奈緒さんのアンバランスさが、とてもいいです。

松下K……彼女は真面目すぎるがゆえに、自分にないものに惹かれてしまうんでしょうね。だから軽薄で、崩れた感じの恵太(資産家の婚外子)みたいな男を信用してしまう。

松下T……自分に何か欠けていると思う人は、無意識に、何か欠けている人と引き合うんでしょう。奈緒だけじゃなく、みんなそうだと思います。

松下さん

遺産相続トラブルはお金以外のことが原因

きらら……物語の前半は、嫌われ者の資産家・鬼沢の財産を、子どもたちが露骨に奪い合います。このような事例は、家裁でも実際に多いのでしょうか?

松下K……さすがに命を狙うほどの極端な争いは見たことがありませんが、話し合いがつかなかったケースが家裁に持ち込まれるので、それなりにこじれているのは確かです。お金のことでもめているのに、「お金の問題じゃない」という発言がよく聞かれるのは、たとえば兄弟間で差別されたとか、自分だけ親の愛情を十分に受けられなかったとか、昔こういうことを言われて傷ついたとか、心の奥底にくすぶっていた不満や恨みが金銭的な要求の裏にぴったりと重なっているからです。要求が通らないと、金銭的な損得だけでは終わらず、自分の存在そのものが否定されたような感情を抱く方もいます。長年の恨みを晴らしてくれるのはお金だけ。過去は取り戻せないのだから、せめてお金で満たしてほしいという怒りが話し合いをこじらせるのですね。そういうリアルな人間の在りようは、鬼沢の子どもたちの描写に、ちりばめています。

松下T……『誤算』はKさんのお仕事の専門知識が、とても役立っています。就職してから数年後にKさんと会ったとき、「人間は結局、色と欲よ」と言われたのを覚えてます。お嬢さんだった彼女が、淡々と言うので、ずいぶんいろんな経験をしているんだなぁ……と感じました。

松下K……あはは。そんなことも言ったね。

松下T……Kさんは弁護士が瞬間的にやるような複雑な計算が、ぱっとできるんです。『誤算』の中盤、恵太が遺産の配分の計算をすらすら言って、奈緒が「そんなややこしい計算、よくできるわねぇ」と感心する場面があります。あれは私のセリフでもありますね。Kさんの専門知識に対して、素人代表みたいな気持ちで、セリフを書いていきました。

松下K……私たちの得意なところが、噛みあっていました。共作のスタイルが、本当に正解だったと思います。

松下さん

自分たちのハードルが高かった

きらら……鬼沢の遺産相続をめぐる騒動は、当事者たちは真剣でも、どこかユーモラスに描写されています。

松下K……おかしみは、残しておきたいと考えていました。しかつめらしい話じゃなくて、クスッと笑える話の方が、いいですね。

松下T……やっぱり明るいエンターテイメントじゃないと、読んでて苦しいなと思っています。

松下K……優れた名作の小説でも、悲惨な話は、そんなに好きじゃないんです。

松下T……登場人物がひどい目に遭っても、救いは欲しいなと。最後には、希望の光が射す話を書きたいです。

きらら……希望と、どんでん返しの効いた『誤算』のラストは素晴らしかったです。このあと『流転の女』(2011年)を発表されて、しばらく沈黙されています。なぜでしょうか?

松下T……『流転の女』は自信作だったのですが、反響がなくて、あれ……? となりました。

松下K……もし売れていたら、その後の執筆ペースは違っていたかもしれませんね。他にもいくつか新作を書きかけてはいましたが、自分たちのハードルが、けっこう高いんです。

松下T……構想について意見を交わしているうちに、「そんなのつまらないじゃないの」といって、書く手が止まったりしています。パトリシア・ハイスミスなど、名作を読み過ぎているせいで、書く方としてはハードルになっています。

松下K……名作までじゃないにしても『誤算』『流転の女』以上のクオリティにしないとダメだと。高望みしているうちに、5年6年が経ってしまったという感じです。

松下T……けれど、書き続けてはいます。自分たちが納得できるレベルのものを、模索しながらふたりで取り組んでいます。

松下K……ロアルド・ダールのような短編もいいですが、私たちが書くのは長編です。いいところを活かし合うには、長編が向いています。

松下T……ありがたいことに『誤算』が再評価されて、プロの作家として書いていく意欲が、また高まってきました。

松下K……書きたいジャンルは、やはりミステリです。警察・事件ものよりごく普通の人たちのリアルな日常の中で起きる出来事を扱う方が私たちには向いていると思います。小さな話であっても謎解きやどんでん返しで楽しめるような作品を目指して、また新しい長編に挑みます。

★編集Mの文庫スペシャリテ★『誤算』松下麻理緒
角川文庫
松下麻理緒(まつした・まりお)

東京女子大学心理学科同期卒のふたりによる共同執筆のペンネーム。それぞれ東京都生まれと 福岡県生まれ。2006年『毒殺(ポイズン)倶楽部』で第16回鮎川哲也賞佳作。『誤算』が第27回横溝正史ミステリ大賞・テレビ東京賞を受賞。他に 『流転の女』。

〈「きらら」2018年10月号掲載〉
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