白川尚史さん『ファラオの密室』*PickUPインタビュー*
ブルー・オーシャン戦略で古代エジプトに挑む
大賞受賞作は古代エジプトが舞台
探偵役はなんと、ミイラである。自分の欠けた心臓を探すために三日間だけ現世に蘇った死者が、自身の死の謎と、ピラミッドから王の遺体が消失した謎を追いかける──そんな意表を突く設定で第二十二回『このミステリーがすごい!』大賞の大賞を射止めた白川尚史さんの『ファラオの密室』。歴史ものと聞くと構えてしまいそうな読者にも分かりやすい描写で、本格的な謎解きと人間ドラマを堪能させるエンターテインメント作品だ。
白川さん自身も執筆するまでは特に古代エジプトには詳しいわけではなかったという。ではなぜ、この時代、この場所を舞台に選んだのか。
「ビジネスでいうブルー・オーシャン戦略で、みんなが知っているのにあまり書かれていないところを選びました。最初はメソポタミアがいいなと考えて調べ始めたら、当時は隣国との戦争が頻繁に行われていたのでヌビアやエジプトとの関係もいろいろ出てくる。その時に、考えてみたらエジプトのほうがいいんじゃないか、となって。小説には葛藤が大事だと言われますが、葛藤がある時代や場所はどこか探していく中で、今回作中に書いた古代エジプトの宗教革命に行きつきました」
ビジネスマンが小説家を目指すまで
白川さんは現在、34歳にしてマネックスグループの取締役である。そんな彼が、なぜ小説を書こうと思ったのか。
「小さな頃から本が好きで、漠然と作家に対する憧れがずっとありました。家には本があふれていて、父親は時代小説、母親は海外小説、姉は島田荘司さん、有栖川有栖さんの作品が好きで。それらの影響を受けつつ、自分はフィリップ・K・ディックやマイクル・クライトン、他にロビン・クックなどを読み、中学時代には安能務さん訳の『封神演義』が好きで、片道1時間ほどの電車通学の往復の間ずっと読んでいました」
東京大学工学部に進学、AI研究の第一人者、松尾豊氏の研究室で機械学習を学び、卒業後は研究室の先輩と起業し代表取締役に就任。ミステリーをよく読むようになったのは、この時期だったという。
「職場が同じだった大学の先輩に薦められたのがきっかけです。『東西ミステリーベスト100』に掲載された作品も一通り読みました。そのなかで、特に好きになったのはハードボイルド。田口俊樹さん訳のローレンス・ブロックの小説の言い回しがすごく格好よくて、自分でも書いてみたくなりました」
八年あまり取締役を務めたのち、違う環境も経験してみたくなって任期満了のタイミングで退任。それが31歳の頃だ。
「時間に余裕ができたので小説にチャレンジしてみようと思いました。最初は一ヶ月でハードボイルドを書いて江戸川乱歩賞に応募し、見事に一次で落ちてそりゃそうだよな、と。ただ、締切に間に合うように集中して長篇を書いて出すという経験がマラソンのようで面白く、次もチャレンジしてみたくなりました。といっても、いつ作家になれるか分からないので、さすがに無職ではいけないとは思っていて。その時に、中高の先輩だったマネックスグループの松本大会長から社外取締役としてボードに加わってくれないかとお声がけいただきました。社内の取締役に比べて時間の余裕もあって執筆と両立ができるし、同じボードにソニーの元CEOである出井伸之さんや良品計画の堂前宣夫さんがいらっしゃって、その方々とお話しするだけでも大変貴重な機会だと思い、勉強させていただく気持ちで引き受けました。でもだんだんマネックスという会社が好きになり、社内取締役になって働いているうちに作家デビューできてしまった、という感じです」
『このミステリーがすごい!』大賞には前回も応募したという。
「それが『次回作に期待』のコーナーで講評をいただいたんです。欠点も指摘されましたが褒めていただいているところもあったので、また『このミス』大賞に出したいなと思いました」
その時は技術系の知識を活かし、VR少年院を舞台にした〝館もの〟を書いたのだそうだ。次に応募したのが本作なのだから、ずいぶん舞台が飛躍している。
「失敗の原因を考えて、まず、キャラクター造形かなと思ったんですね。自分はこれまでアニメやゲームに多く触れてきて、ラノベ向けのキャラクター造形が自然になっている。現代社会の人間を描き切るには精進が必要そうだから、現代を舞台にしないほうがいいかな、と。それと、テクノロジーの知識は自分の強みでもあるけれど、それを小説としての強みに活かすのはものすごく技量が必要だな、と思いました。なまじ知っているが故に、描写が教科書的になってしまっていました。それで、現代や近未来ではない舞台で一回書いてみよう、というのが古代を選んだきっかけでした」
古代といっても国内が舞台のものは先行作品も多いため、先述の通り、ブルー・オーシャン戦略を立ててエジプトの宗教革命にたどり着いたわけだ。
宗教革命を実行した王の遺体が消失
紀元前14世紀。第18王朝のファラオ、つまり王のアクエンアテンはエジプトの主神を唯一神のアテンに定め、それまで信仰されていたアメン神を含め他の神々への信仰を禁じた。
「一説では、この宗教革命は力をつけすぎた神官たちに対抗し王が自分の権力を増すために行ったと言われています。そうした、いろんな思惑が絡んで大きなうねりがある場所なら小説にしやすいと感じました」
そのアクエンアテンが死去。有能な職人タレクの手で遺体はミイラ化されるが、葬送の儀の当日、王墓であるピラミッドからそのミイラが消失する。
一方、タレクの幼馴染である神官書記のセティは、気づくと冥界の入り口にいた。自分の死の理由が分からぬまま死者の審判の場に臨んだセティは、心臓が欠けていると指摘され、三日間だけ現世に戻って心臓の欠片を探すよう提案される。見つけ出させなければ魂は永遠にさまようしかない。義足のミイラ姿で現世に戻ったセティは、先王のミイラ消失の謎にも直面する。
重要人物は他にもいる。第二章で登場する女性奴隷、カリだ。ハットゥシャ(現在のトルコ南部)から売られてきた彼女は、ピラミッドに使われる石を運ぶ、過酷な労働を強いられている。エジプト人を憎む彼女だったが、セティやタレクと出会い、やがて謎の解明に協力することとなる。
じつは、最初に考えていた主人公はカリだったという。
「奴隷の身分から出発して地位を上げていくキャラクターを考えていたんです。それに、古代エジプトと現代の日本は常識が違うので、読者に近い異人の目が欲しい、というのもありました。それで、他所から来たカリが、当時のエジプトで常識とされていたことを科学的におかしいと指摘するトリックを考えたんです。それを七割五分くらい書き上げたところで、ちょっと違うな、という気がして。物語としては成立していても、新人賞を獲れるほどインパクトがあるのかと悩みはじめました」
それが応募締切まであと一か月くらいの時期。ちょうどゴールデンウィークに入り、家族旅行に出かけた。
「旅先で読んだ小説の中に、斜線堂有紀さんの『楽園とは探偵の不在なり』があったんです。あれはもう、世界観がすごいじゃないですか」
『楽園とは探偵の不在なり』は、顔のない天使がいる世界が舞台。二人以上の人間を殺すと即座に天使に地獄に引きずり込まれる、というルールが存在する世界で、連続殺人が起きる……。
「こんな魅力的な設定のミステリーがあるのに、新人賞を目指している人間があまりに普通なことを書いていては駄目だと思って。それで、ミイラがいるのが普通の世界に変えることにしました。ゼロから書き直すには時間が足りなかったので、カリの存在も残したところ話がスルスルと流れ出して、なんとか五月末の締切に間に合いました。出してからもっとできることがあったなと後悔したので、そこは今回本になる際に全部直しました」
このカリという存在がいるからこそ、当時の権力を振るう側、搾取される側の格差の問題や、人間同士の信頼と不信のドラマがより鮮明になってくる。また、セティと書記長だった父親との関係、カリが抱く自分を捨てた両親への屈託など、親子関係の機微も見えてくる。
「親子に関しては書きたいテーマでしたが、入れるかは悩んだところでした。当時はファラオを中心とした全体主義的な社会だっただろうし、戦争で亡くなる人も多く、人々の寿命も短かったはず。なので個人の幸せといった概念はそんなに強くなかった気がします。そこに現代的な価値観をどこまで持ち込むかは葛藤があったんですが、必ずしも史実通りに書くのが正しいわけではないだろうし、物語の強度が増すなら、ということで入れました」
とにかく文章が読みやすい。説明的になりすぎず、しかし読者が把握できるよう配慮した描写が巧み。
「ビジネスで文章を書いていたことと、あとは弁理士として生計を立てていた時期があり、特許に関する発明の説明文なども職業的に書いていたので。弁理士は作図も自分でしなくてはいけないので、トリックに関する図版も自分で作成しました。そういう職業経験は多少活きているかもしれません」
当時のエジプトの政治の状況や人々の生活の様子も伝わってくる。死者の存在が信じられていたなど、確かに現代の常識とは異なる点も多い。ただ、創作もかなり交えているという。
「当時の人が死者に宛てて書いた手紙などは資料として残っていますが、実際にミイラが動いたわけではないですし(笑)。それと、ミイラを作る過程は実は分業制で、王様のミイラをタレクが一人で手掛けたというのは基本的にはありえなかったことです。そこはちょっと創作してしまいました」
ニーズの背景を深掘りする
三日間のタイムリミットの中で、セティたちは何度も危機に直面しながら真相に近づいていく。小さな謎も盛り込まれるほか、終盤には意外な真実も明かされて読み応えたっぷり。この第一作で力量を十分示した白川さんだが、今後はどのような作品を書いていきたいのか。
「別の古代都市の話も書きたいですし、一方で現代の日本を舞台にしたものもチャレンジしていかないと作家としての広がりが出ないので、両面を考えているところです。どちらにしろ、読んだ人が楽しんで勇気づけられるものが書きたいというのがひとつ。あとは、会社経営をしてきて感じるんですが、顧客の要望をそのまま聞いてもあまりいい結果にならないことが多いんです。その要望が出る背景を理解して、顧客が自覚していないけれど欲しいと感じているものを作らなきゃいけない。小説も、流行っている題材を書くのではなく、多くの人が今読みたいものを探して掘り下げていくことを軸として持っていたいです」
やはりハードボイルドも書きたいのでは? と訊くと、被せるように「書きたいですね」と返ってきた。
「即答しちゃいました(笑)。でもそれは、もうちょっと作家として能力が上がってからだと思いますし、令和の時代に求められるハードボイルドとは何なのかを考えてからです。今はコスパとかタイパが言われていて、自分が得をしたいという欲求や何者かになりたいという気持ちが強い時代だと感じます。ハードボイルドはどちらかというと真逆の価値観で、自分が損しても信念を貫く姿が書かれていたりする。僕はそういう姿勢が好きなんですけれど、どうすれば今の価値観と矛盾せずにそこに美学を感じてもらえるかは、これから考えなくてはいけない課題です」
白川尚史(しらかわ・なおふみ)
1989年神奈川県横浜市生まれ。東京大学工学部卒業。弁理士。卒業後起業し、2020年まで代表取締役を8年間務め退任。現マネックスグループ取締役兼執行役。2023年「ミイラの仮面(マスク)と欠けのある心臓(イブ)」で宝島社主催の第22回『このミステリーがすごい!』大賞の大賞を受賞。同作を改題した『ファラオの密室』でデビュー。