李 龍徳さん『あなたが私を竹槍で突き殺す前に』

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文学は世界を変えるか?
著者近影(写真)
李 龍徳さん『あなたが私を竹槍で突き殺す前に』
イントロ

 大阪を舞台にした異形の恋愛小説『死にたくなったら電話して』で、李龍徳は第五一回文藝賞を受賞し純文学のフィールドで活躍してきた。
 第四作となる『あなたが私を竹槍で突き殺す前に』は、人間の悪意を突き詰める作家性はそのまま、エンターテインメントの回路を全開にした全三八四ページの自己最長長編小説だ。

 物語は、衝撃的な一文から始まる。

〈排外主義者たちの夢は叶った〉

 その世界では特別永住者制度は廃止され、外国人への生活保護が違法となり、現実では二〇一六年に公布・施行されたヘイトスピーチ解消法も廃止となった。日本初の女性総理大臣は「極右」であり、在日コリアンを攻撃対象に特化し、「嫌韓」によって大衆の愛国心を焚きつけた。ヘイトクライムによって殺人事件が引き起こされたにもかかわらず、大衆は「愛国無罪」の論調を支持し被害者を糾弾する──。『あなたが私を竹槍で突き殺す前に』は、パラレルワールドの近未来日本が舞台だ。

「僕は在日韓国人三世なので、ヘイトスピーチは僕自身の痛みとして耳に入ってきます。それを吸い込んでいるうちに、心の貯水量が満杯になってきたんですよね。いっそ排外主義者たちにとってのユートピアを書いて差し上げよう、と思ったんですよ。怒りというよりは、嘲りの気持ちでしたね。あなたたちの差別的発想の一つ一つが、現実化した先の日本はこうなりますよ、と」

 あらゆるユートピアがそうであるように、見方を変えればその世界は、ディストピアだ。差別を受ける在日の人々の生活とともに、不寛容さが人々の間に渦巻く社会のギスギスした姿を、物語は写実的にドキュメントしていく。

「着想の出発点は排外主義者たちの在日コリアンに対する悪意ではあるけれども、僕自身が在日だからそれを題材にしただけです。日本に暮らしているマイノリティの人たち、もっと言うとこの社会に暮らすことが息苦しく感じている人たちの境遇を描きたかった。ただ、そうした境遇をそのまま書くやり方では、〝何を今さら〟という感じで、今の時代はなかなか届きづらくなっている。SFのフィルターを使い、面白いエンターテインメントとして読みこなしてもらう必要があると思ったんです」

全員を集結させる前に一人一人の人生を描く

 小説は全一〇章構成で、章ごとに主人公=視点人物が変わる。第一章は、在日の人々が自衛的に集まる「要塞都市化」した大阪市生野区へ、父が韓国人で母は日本人という出自を持つ、三〇代前半の柏木太一が訪れる場面から幕を開ける。第一章の最終盤で登場する一文は、〈今こうして駒が三枚揃った。(中略)まだ揃っていない残り二枚のうちの一枚は、ほとんど手中にあるも同然で、その説得も容易すぎるほど容易だろう。問題は最後の一枚だが、これはまずその人探しから始めないといけないし、すでに緩く始めてもいるのだがなかなかに難しい〉。実質的な主人公である太一は、自身が立てた「世界を、もしかしたらわずかにでも変えられるかもしれない」計画を共に遂行する、五枚の駒=仲間を集めているのだ。

「本編の実質的なラストである第九章の展開を、最初に思いついたんです。太一の計画に賛同する仲間五人が全員集結して、自分たちはどういう変遷を経てここに集まってきたか……と話し合っている姿を、一種の会話劇として書こうかなと思ったんですね。ただ、一つの章の中に閉じ込めるには、個々の人物の背景が広がりを持ちすぎていた。章ごとにバラけさせ、個々の人生について丁寧に書いていった先で、全員集結の章を書こうというふうに設計図を引き直しました」

 第一章で物語全体を牽引する謎(=計画)が提示され、以降の章では、太一が計画遂行のために仲間探しを行う姿とともに、仲間となる登場人物それぞれの物語が綴られる。『南総里見八犬伝』にも通ずる、エンターテインメントの王道の快感が採用されている。いや、むしろ『アベンジャーズ』と言った方が適切かもしれない。

「『アベンジャーズ』のたとえ、イイかもしれません(笑)。日本を出て韓国で自給自足のコミューンを作る『帰国組』のリーダー、極右野党の末端構成員になった青年、ヘイトクライムが起こした殺人事件によって被害者遺族となった青年……。最終的に太一の元へ集まる人もいれば、集まらない人もいるんですが、それぞれが全く異なる事情を持った、実在感のある人物を描きたいと強く思いました」

 そのために必要だったのは、濃密な心理描写だ。登場人物たちはシリアスな感情に満ちているが、要所要所で恋愛要素が顔を出すのはこの著者らしさと言える。

「僕はフランス文学科出身なんですが、フランス文学の特に何が好きかと言うと、心理分析小説の側面なんです。具体的には恋愛を書くことで、心理を詳細に描き、その結果として人間を描く。そういった気質が僕の体の中にも入っているから、ちょこちょこ恋愛の話が出てくるんだと思います。例えば、失恋すると本当に自殺したくなるじゃないですか(笑)。ただ、他の人が失恋して絶望しているという話を聞いても、〝どうしてそんなことぐらいで?〟と思ってしまう。自分で体験してみなければ分からない、他人と自分は違う存在であるという事実を象徴するもののひとつが、失恋だと思います。恋愛は父母の情とも友情とも違いますし、その人物の人間性を掘り下げるうえでも描きがいがあるんです」

小説世界に対して絶対噓はつけない

 ページをめくりながら無数の登場人物の内面に入り込み、彼らの悲しみや怒りを追体験したからこそ、全員集合の第九章は独特な熱を帯びて読み進めることになる。そこで初めて太一の「計画」の中身が明かされるのだが、予想は必ず裏切られることだろう。

「この世界の中では差別と弾圧によって数も減り、力も弱まりつつある在日韓国人たちが結束したところで、何ができるか。発信力の強い差別主義者の誰かを殺したとしても、逆に差別は強まるだろうし、何をしたってマイナスにしかならない。いくつかのシミュレートをした結果、これしかないだろうなというのが、僕と太一の結論です」

 ひとつ前の章では、残酷な世界の中で、それでも「理想主義」を貫こうとした人物のことが書かれている。その人物の発する言葉は、読者はもちろん、作者にも効いた。

「物語の設計としては、みんなが太一の計画に乗らなければいけないんですが、〝そっちに行くな!〟という気持ちになってしまいました。他にアイデアがあるならば……と改めて考えてみたりもしたんですが、やはりこれ以外にはなかった。それまでに培ってきた小説世界に対して、絶対嘘はつけないと思ったんです」

 計画遂行の瞬間、『あなたが私を竹槍で突き殺す前に』の意味が胸に飛び込んでくる。このタイトルは、流言飛語によって生じた関東大震災時の朝鮮人大虐殺を下敷きにしている。

「二〇歳になる前までは、在日という問題に対して、正面から向き合おうとはしていませんでした。むしろ、あえて目をそらしていた。でも、逃げてもしょうがないというか、作家である以上は自分自身が生きている現実について書かざるを得ない。ここで一回、思いを全部詰め込んでみようと思ったんです。だから、こんなに分厚い本になりました」

 まったく別の方向からも、実人生が物語の中に入り込んでいった感覚があると言う。小説家志望である朴梨花が放つ言葉の多くは、自身がデビュー前に考えていたこと、そして今でも信じていることの言語化だ。

「三七歳でデビューするまでの十数年は、新人賞に投稿してもなんの反応もなく、無為に過ぎ去っていく日々でした。どうして自分は小説を書いているんだろう、誰のためなのか、何のためにもなっていないじゃないかと悩むことは多かったんです。でも、自分が小説を書いたという行為が、ほんの少し地球を回しているんじゃないか。もっと言うと、ほんの少し世界を善くしているんじゃないかと吹っ切れた瞬間があったんです。デビューして、僕の本を読んでくださる方が少なからず現れてからは、ちょっと欲が出ました。例えばこの本を読むことによって、読んだ人が他者に対して優しくなれるかどうかは分かりません。でも、差別的な言説を言いづらくさせる、無意識の引っかかりを覚えさせる、そういうことはできるんじゃないか。もしそれができたとしたら、〝文学が世界を変えた〟と言っていいんじゃないかと思うんですよ」


あなたが私を竹槍で突き殺す前に

河出書房新社

特別永住者制度廃止、日本初のヘイトクライム、〝嫌韓〟女性総理大臣が誕生……とどまることなき排外主義にカウンターを食らわすべく、在日三世の柏木を筆頭とした若者たちが起ち上がった。激しく、挑発的な青春群像。


著者名(読みがな付き)
李 龍徳 (イ・ヨンドク)
著者プロフィール

1976年、埼玉県生まれ。在日韓国人三世。早稲田大学第一文学部卒業。2014年『死にたくなったら電話して』で第51回文藝賞を受賞しデビュー。他の著書に『報われない人間は永遠に報われない』(第38回野間文芸新人賞候補)、『愛すること、理解すること、愛されること』などがある。

〈「STORY BOX」2020年6月号掲載〉
佐藤賢一『ナポレオン 1 台頭篇/2 野望篇/3 転落篇』/皇帝のあまり英雄的でない部分にも光をあてた書
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