島本理生さん『2020年の恋人たち』
流されない恋愛
直木賞作家・島本理生が、同賞を受賞した『ファーストラヴ』以来二年半ぶりに長編小説『2020年の恋人たち』を発表した。
恋愛小説の名手の新作にして、「恋愛小説」の可能性を大きく広げる一作である。
これからの人生についての物語
『2020年の恋人たち』は、島本理生らしさが濃厚に詰め込まれながらも、全編にわたって真新しい感触が持続している。その理由は、ヒロインの人生における恋愛の位置付けにあった。
「私は今まで、障害のある恋愛を書くのがすごく好きだったんです。先生と生徒だったり(『ナラタージュ』)、どちらかが結婚していたり(『Red』)、どちらかあるいは双方が捨てられないものを持っていた。そういう恋愛は二人だけの世界になりやすいので、どんどん加速して、究極的に〝生きるか死ぬか?〟みたいな状況になるのが、書き手としての醍醐味だったんですよね。でも、私自身の年齢が上がり小説家としてもキャリアを積んだことで、自然と視点が変わってきました。たとえ激しい恋に落ちたとしても、人生の中で起きていることは、恋愛だけじゃない。仕事上の解決しなければならない問題もあれば、家族との問題もある。そこのバランスを意識した小説が書いてみたいな、と思ったんです。そうは言っても恋愛小説を書いているつもりだったので……当初のイメージと、こんなにも印象が変わった小説は初めてでした」
物語は二〇一八年春から始まる。東京に暮らす三二歳の会社員・前原葵は、ワインバーを営んでいた母の交通事故死により、移転リニューアル予定だった千駄ヶ谷の新店を引き継ぐ。その決断が、新たな出会いを次々にもたらしていく。
年下の青年・松尾に店を手伝ってもらうことになり、長年同棲していた引きこもりの恋人・港との関係を清算し、既婚男性である瀬名に恋する気持ちを思い出させられて──。
「出発点を母親の死にしたのは、娘にとって母親の影響はすごく強いということを、私自身が三〇代に入ったところで実感したからです。もしも若くして母親を亡くしてしまったら、娘はその後の人生をどう過ごすことになるのか、小説を通して考えてみたかった。先の展開は固めずに書き出してみたら、恋愛がどうこういうよりも、主人公がいろんな人とどんどん別れていくからびっくりしました(笑)。
三〇代で独身の友人の話を聞くと、 たとえ自立していても〝それより結婚相手を見つけろ〟みたいな価値観の押し付けはまだ根強い。でも主人公は、母親の影響から抜け出して自分が持つ関係性を一つ一つ見直していく。書き終えて初めてこの小説は、要るものと要らないものとを選んで要らないものはどんどん捨てていく〝これからの人生〟についての物語だと気がついたんです」
流されたのだとしてもその先には学びがある
本作は二〇一七年六月から二〇一九年一月まで、「婦人公論」で一年七ヶ月にわたって連載された。そして、ほぼ同じ歳月をかけて、加筆修正を超えるレベルの「全面書き直し」を行なった。そもそも初出時のタイトルは、『2020年までの恋人たち』だった。物語自体も、二〇一九年の年末で終わっていた。
「連載の最終回を書いたのは二〇一八年の終わりだったんですが、東京は二〇二〇年にオリンピックが来て、景気もよくなって観光客の人も増えて……と、これからどんどん盛り上がっていくような空気がありました。今から思えばそこに影響されて、最初はもっと恋愛至上主義というか、さらっと明るい感じのハッピーエンドにしていたんです。でも、なんか違うなぁと原稿をいじっていた時に、コロナがやって来ました。国立競技場がある千駄ヶ谷の飲食店の話だから、コロナについて触れないのは不自然だし、新たに取材も進めていったところ、ラストの方向性がまるっきり変わっていきました。終盤を大きく変えるのであれば、そこに至る展開もイチから見直さなければいけない。プリントアウトした元の原稿を脇に置いて、一行目からパソコンで打ち直していきました」
島本は連載中の二〇一八年七月に、『ファーストラヴ』で直木賞を受賞している。直木賞作家が、そこまで自作に手を入れるとは!
「直木賞をいただいたからこそ、この機会に、小説というものにもう一度ちゃんと向き合おうと思ったんです。一行一行打ち直していくうちに、問題点がかなりクリアになりましたね。小説はエピソード単位ではなく一行単位でできているものであって、主人公の感情は一行目から最終行まで、一本の線で繋がっている。線がもつれたり途切れたりしている部分を中心に、徹底的に直していくことにしたんです。もともと私は、主人公の周りにいる人たちの人間性だったり、恋愛模様だったりを書きたいという気持ちの方が強いタイプです。主人公自身の内面を掘り下げるということが、あまり得意ではなかった。この作品は、そこへの挑戦でもありました」
冒頭で「島本理生らしさ」という言葉を出したが、その一つは「流される主人公像」にある。
『ファーストラヴ』は、負の「流され」の極限を描いた作品だった。本作の葵も、運命と呼ばざるを得ない状況に身を委ね、他者の思惑に巻き込まれていってしまう要素は多分にあるのだが、自分で自分の道を選ぶ強さも兼ね備えている。
「連載時の原稿ではもっと主人公が流されて、危ういものに引き寄せられるような感じでした。書き直しているうちに、この主人公は意外と強いんじゃないかなとか、地に足が着いているタイプじゃないか、という点がどんどん見えてきた。例えば、これはもう絶対付き合うしかないでしょうという流れで、彼女は自分の気持ちにストップをかける。読んでいただけるとすぐわかると思うんですが、今までの私の小説の主人公であれば、〝彼〟と付き合わないなんてあり得ないんです(笑)。その選択をしたうえで、流されてしまわなかった理由を自分なりに言語化して、理解しようとする。彼女は人生のいろいろな場面で流されたり流されなかったりしながら、自分がした選択を、未来のための学びに変えることができる人なんです」
恋愛を描くことで社会をも描き出す
本作は、シスターフッドの物語という側面もある。
義理の妹でシングルマザーの瑠衣、離婚問題を抱える外国帰りの伯母・弓子、京都の日本料理屋で出会い意気投合した起業家の芹……。女性同士の連帯が、葵が厳しい現実に立ち向かうための支えとなっているのだ。そのような関係を結べているのは、お互いの心を開いているからだ。
「男性の登場人物のキャラは最初からわりと固まっていたんですが、今から思えば主人公も含め、女性の登場人物の掘り下げ方が甘かった。でも、主人公の感情のほつれをほぐしていったら、他の女性たちの心の奥底にあるものもどんどん出てきました」
その結果、二〇二〇年を生きる「私たち」のリアリティが作品世界に濃密に盛り込まれることとなった。コロナによるうっすらした絶望に覆われたこの世界で、自分は今、誰と一緒にいたいのか──。
登場人物たちの選択や思弁が、読み手を揺さぶってくる。
「この小説が、人生の縮図みたいなものになればなぁと思っていました。読んだ方が自分の人生と照らし合わせて、〝ああ、私も本当はあれ、イヤだったんだ。そう言ってよかったんだ〟と振り返ったり、逆に〝今ならあの人のことを許せるかもしれない〟と思ったり、あるいは人生のままならなさをこれから知っていく人が、〝こういうことが起きるかもしれないんだ、気をつけよう〟と思ったりしてもらえたら、すごく嬉しいです」
一年半にわたる改稿期間は、「小説を書くってどういうことだったんだろう?」と考え続け、学び続けた時間だったと言う。それは「今という時代は、この社会はいったいどうなっているのだろう?」という問いかけとも重なり合うものだ。
「人間は社会的な生き物なので、無数の人々と繋がっています。その中から誰を選びどう関係していくか、あるいは何が理由でその人から離れていくかは、個人の思惑を超えたところにある、社会というものの存在も大きく作用している。私は小説で恋愛を書きながら、社会のことを書いているんだ、とこの作品を通して強く実感させられました」
今後も恋愛を書き続けたいと語る作家にとって、これから幾度となく立ち返るであろう、新たな里程標となる傑作が誕生した。
東京五輪を控え、再開発が進む東京。ワインバーを営んでいた母が亡くなった。店の引き継ぎを決意した32歳の前原葵は、店舗移転と相俟って母が築いてきた関係性を整理する。店のパートナーとなるシェフ、グルメ雑誌副編集長といった男を「鏡」にしながら、自らを見つめる。
島本理生(しまもと・りお)
1983年、東京都生まれ。2001年『シルエット』で群像新人文学賞優秀作、03年『リトル・バイ・リトル』で野間文芸新人賞、15年『Red』で島清恋愛文学賞、18年『ファーストラヴ』で直木賞を受賞。著書に『ナラタージュ』『大きな熊が来る前に、おやすみ。』『あられもない祈り』『夏の裁断』『あなたの愛人の名前は』『イノセント』など。
(文・取材/吉田大助 撮影/藤岡雅樹)
〈「STORY BOX」2021年2月号掲載〉