源流の人 第11回 ◇ ナカムラクニオ (ブックカフェ店主・金継ぎ師・ アートディレクター)

人と人を繫ぎ、文化を継ぎ足す
世界が注目の「KINTSUGI」の担い手は時を越え、国境を越える

源流の人 第11回 ◇ ナカムラクニオ (ブックカフェ店主・金継ぎ師・ アートディレクター)

やりたいことは一つでなくていい。導かれるようにして、パラレルキャリアが一人のテレビマンの生き方を変えていった。


 夕焼け色の快速電車は新宿駅を出発すると、西へ西へとまっすぐ突き進む。JR中央線を荻窪駅で降り、賑わう商店街を西へ数分歩くところに、その「異界」はある。

 そこはブックカフェ「6次元」。かつて三十年以上続いた伝説のジャズバー「梵天」、そしてその跡地に誕生した喫茶「ひなぎく」だった空間を、更にリノベーションして二〇〇八年十二月八日、「6次元」はオープンした。この日はジョン・レノンの命日でもあり、釈迦が悟りを開いたとされる日でもある。五十年もの時を重ねて、木造の壁や床は年季の入った焦げ茶色となり、空間を灯すランプは百五十年前のアンティーク。針が壊れ、時を刻むのをやめてしまった柱時計の中には、エンデの小説『モモ』が閉じ込められている。約三千冊もの和洋書に囲まれながら、窓の外に広がる中央線の複々線を眺めていると、この場所は、広大な川を借景とした茶室のようにも、寄せては返す波を眺める客船の船室のようにも思えてくる。

 この店の主はナカムラクニオ。元は美術や旅番組のディレクターとしてテレビ番組の制作に携わってきた映像ディレクターだ。三十七歳で独立し、この店を構えた。「6次元」という名は、ハチの巣、光の乱反射、タヒチで泳いだウミガメの甲羅など、なぜか六角形に魅せられたという彼自身が名付けた。

「神社の前にあって、お寺の横にあって、中央線の線路に挟まれた三角地帯。そもそも立地がおかしい(笑)。魔界みたい。店の歴史もこの場所を愛す人たちが皆で守ってきた、そんな印象を覚えるのです」

「6次元」といえば、毎年メディアに注目される瞬間がある。それはノーベル文学賞発表の時。この店に村上春樹の小説愛好家らが集い発表の時を待つのだ。テレビで生中継されるのを見たことがある人もいるだろう。ナカムラは言う。

「村上さんが国分寺でジャズ喫茶を始めた頃、同時期に(前身の)『梵天』ができました。中央線沿線にはジャズバーが多数あったのですが、今は殆ど消え、原形の雰囲気をとどめているのはここなど数か所だけ。だから親しみを感じてくれているのかも知れません」

横尾忠則が絶賛した才能

 ナカムラは、荻窪から約八キロ南に離れた目黒の街で生まれ育った。貿易関係の仕事に従事するサラリーマン家庭だったが、祖父は曽祖父の代から続く金型工場を営み、老舗和菓子屋の羊羹の型を作っていた。実家には美術の本が積み上げられ、高校に進む頃にはその世界にどっぷりつかった。十五歳の時、米国人現代美術家ジョナサン・ボロフスキーの展覧会に行き圧倒された。その後、ほぼ三百六十五日、都内じゅうの美術館に通い詰めたという。美術雑誌に、展覧会の批評を書くと招待券をもらえる欄があると知ると、はがきに連日感想を書き連ねて送り、チケットを手にしていった。

 自身が絵筆を執り、創作活動を始めたのも、この頃だ。

「賞金稼ぎのように、イラストやデザインのコンペに応募し続けました。特に覚えているのは、大好きな横尾忠則さんが審査員を務めた『ららぽーと』のロゴデザインコンペでした」

ナカムラクニオさん

 憧れの巨匠に見てもらいたい。その一心で、動物の骨を組み合わせたようなポップなロゴを夢中で制作して応募すると、横尾が絶賛してくれた。本採用こそ逃したものの、特別賞を受賞。十万円の賞金を手にした彼が直行したのは、渋谷のギャラリーだった。

「当時あった『電力館』のギャラリーでした。一等地の空間が、銀座とは比べものにならないほど格安で借りられたんです」

 場所を押さえてから作品制作に打ち込み、一週間展示する。大勢の人たちに自らの美学を世に問いかける意義を初めて感じた。初の個展、まだ十七歳だった。

 美大、あるいは英国留学──。ゆくゆくは現代美術の作家になろうと夢見た彼は、浪人中、フランスで買い求めた美術書を、表参道の交差点の道端で売っていた。許可なしの露天商などという行為がかろうじて赦される牧歌的な時代でもあった。古今の珍しい美術書を路上に並べていたある日、声を掛けられた。「君、新しい現代美術館が西麻布にできるから、解説するアルバイトをしないか」。二つ返事でナカムラは頷いた。彼が十九歳の時だった。

 家庭の経済事情から希望していた留学は叶わず、日本国内の大学の美術とも関係ない学部へ。相変わらずバイトに精を出し、お金がたまると海外へ旅する日々を送った。美術館ガイドと、掛け持っていた目黒通りのビデオ店でのバイトを通じ、映像の魅力を知った彼は、就職先にテレビの制作会社を選んだ。

「本当は画家になりたかったんですけど、なるすべを知らなかったんです」

金継ぎとの出会い

 フジテレビの子会社「ニューテレス」に彼は入社する。

 制作部に配属され、人気番組「ASAYAN」(テレビ東京系)を手掛け、昼夜の区別もない生活に突入する。

「会社のコーヒーを飲んでいると怒られるんです。『そんなまずいコーヒーを飲んでいたら、良い演出家になれないぞ!』って(笑)」まずい弁当は食うな。一流のものを見ろ。多感な時期、ありとあらゆるものを見て過ごした。旅番組では海外ロケに飛び回り、パスポートの出国記録は六十を超えた。別の制作会社に移り、「開運! なんでも鑑定団」(テレビ東京系)を担当してからは、ひたすら毎日、プロと鑑定作業を見続け、週末には出張へ出掛けた。全国津々浦々、鑑定と古美術の鑑賞法のイロハを約七年間、間近で学び続けた。すると、自らも魅力にのめり込み、給料をつぎ込み美術品を収集するように。審美眼はみるみる鍛えられていく。そんな折に出会ったのが、のちの彼のライフワークとなる「金継ぎ」だった。

 金継ぎとは、割れたり欠けたりした陶磁器を、うるしで接着し、さらにその継ぎ目を金、銀、朱色などで飾るという、日本の伝統的な修理技法だ。修復後の器は単なる修復物としてではない、独特の新たな魅力が付加される。三十歳だった彼は、人間国宝・濱田庄司の作品鑑定のために訪れた栃木・益子の濱田窯で、濱田の息子・晋作に話しかけた。

「じつは、僕の出身校(日比谷高校)がお父さんと同じで、後輩なんです」

「そうか。それなら、これ使ってみて。俺のつくった新作だけど」

 もらった湯飲み茶碗を毎日、宝物のように使っていたある日。不注意で縁が欠けてしまった。「しまった!」次の瞬間、閃いた。「そうだ、金継ぎがある!」

 しかし十五年前の当時、修復作業を教えてくれる職人はなかなか見当たらなかった。「じゃあ、自分でやってみるか」。東急ハンズで材料を調達し、試行錯誤しながら修復してみると、思うより美しくできた。多忙な毎日で疲弊していた心が、みるみる整ってゆく快感を覚えたという。

 のちに土曜の情報バラエティ「朝だ! 生です旅サラダ」(朝日放送系)のディレクターを約六年務めた時には、日本各地の陶芸・漆器工房を訪ね歩いた。

「ロケハンがてら、いろんなことを教えてもらいました。そこで気づいたのは、職人さんが減っていること、そして後継ぎがいないことです。うるしも、取る職人がいない。国産うるしが極めて貴重であることも知りました」

僕、借ります!

 三十七歳で彼は退職する。このまま下請けディレクターを続けるのも悪くはない。だが、聖夜も大晦日も稼働する日々に疑問符を抱くようになっていた。

 そんな折、引き寄せられるようにたどり着いた場所こそが、この荻窪の「異界」だった。喫茶「ひなぎく」が店を畳むというのでたまたま訪れた時、彼は息をのんだ。時が止まったような……、否、時が長い年月を経て積み重なった空間。全部買い取ってそのまま使ってくれる人を不動産業者は希望しているという。

「僕、借ります!」

 貯金もないのに、彼は瞬時に名乗りを上げた。チャンスは今だ。この瞬間を逃したら、一生会社を辞められない。自らが死ぬまでにやりたい三つのことがあった。「カフェ」「古本屋」「ギャラリー」。この空間ならすべてが叶う! 事業計画書を作り、銀行と交渉し、ナカムラはこの空間のオーナーになった。コーヒーも淹れられない彼が、カフェ店主になった。

 最初に来た客のことを、ナカムラは今も覚えている。

「読書会の場所として貸してくれませんか」

「どういうことですか」

「ここで読書会をやりたいんです」

 客は当時、三十代の男性会社員だった。それが、今も続く村上春樹読書会の始まりだ。ナカムラは笑って言う。

「初めの頃は六時間ほどだった読書会が、そのうちどんどん長くなり、正午スタートで夜の十二時まで開催されることもあるんです」。ちょっとした修行ではないか。

「それでも終わらないんです(笑)。で、合宿に行ったりする。ハルキストたちは語り尽くせない」

ナカムラクニオさん

 彼自身、村上作品の研究を重ね、村上春樹にまつわる言葉をイラストや豆知識で読み解く『村上春樹語辞典』(誠文堂新光社)を刊行した。

 ハルキストだけに留まらず、扉は次々とノックされた。

「ここで演劇をさせてください」

「詩の朗読をさせてください」

 誰もコーヒーを求めていない。驚くほどに、この「場」を求めている。ナカムラが仰天したのは、詩人・谷川俊太郎が訪ねてきたことだ。

「ある日突然いらしたんです。親しくなって、俊太郎さんの朗読会もやりました。親戚のように接してくれ、店のスピーカーの配線も俊太郎さんがやってくれたんです」

 高円寺、吉祥寺、国分寺。かつて「三寺文化」と呼ばれた中央線沿線には他の路線にはない独特の燻りがある。荻窪の街には穂村弘、角田光代、唐十郎ら文化人が数多く暮らすうえ、その昔には井伏鱒二が居を構え、ぶらぶら散歩する姿を街の人の誰もが見知っていた。じつは「西の鎌倉、東の荻窪」と称されるほど、文人や音楽家が多く暮らす街だとナカムラは店を開いて初めて知った。

「僕、全然知らなかったんです。『こんな街だったのか!』って」

 詩人たちと交流を深めるうち、文学や芸術に関する仕事が増えてきた。自らのやりたかったことと関係なく、客に引っ張られていく気分を覚えた。吉祥寺や三鷹近辺に住む大物漫画家からは「夜中三時に打ち合わせ場所として使いたい」と言われたこともある。ポーランドの著名な小説家がやって来て「あさって帰国するから、明日イベントやりたい」と突然打診されたこともある。ダメもとでナカムラがツイッターで呼び掛けてみると、意外にも大勢が集まった。「たった一日の呼び掛けでも、できるのか」。「場」を通じ、人と人とを繫ぐ醍醐味を彼が悟った瞬間だった。彼は言う。

「この『場』があるからこそ受け皿になるんです。怪しい三角地帯を手に入れたからこそ、繋がっている」

 谷川俊太郎はこの空間を「魂の路面電車の停留所」とたとえている。

すべてが偶然によって導かれていく

 店の三千冊の所蔵図書のなかでも、とりわけ目を引くのは美術や文学関連の本だ。客たちは、思い思いに読んだり、借りたり、買ったりできる。いくつか嬉しい偶然も重なった。美術系の老舗出版社が会社統合で倉庫を閉鎖するというので、所蔵書籍をすべて買わないかと持ちかけられたのだ。おかげで美術史の資料を大量に手にすることができた。さらに二年前には、親友から夥しい数の絵具を譲り受けた。「そこにはアクリル、コピック、百二十色もあるスイス製色鉛筆もありました。これは僕に『絵を描け』ということなんだ、そう思いました」

 一生分の画材がある。自由に使えるじゃん! そして美術史の解説書を多数刊行し、自著の挿絵を描くようになった。

 ナカムラが思うこと。それは、「すべてが偶然によって導かれていく」ということだ。だからこそ、繋がれるその瞬間は逃したくない。彼はきっぱり言い切る。

 彼の紡ぐ美術史の筆致は、いわゆる「学者先生」によるアカデミックな論述とは異なり、やわらかい。エッセイとして読み応えがあると評価され、独自の新しい道を切り拓いている。

「この画家は、誰と誰の影響を受けて、どんな経緯でこういう作風になったのか。成分分析をするような感じ」

「6次元」での美術イベントの盛況を知ったブリヂストン美術館(現アーティゾン美術館)、山種美術館を始め、国内じゅうの美術館から解説講座や館内ツアーの依頼が相次いだ。学芸員や評論家とは一線を画す、彼ならではの仕事を見出した瞬間だった。

源流の人 第11回 ◇ ナカムラクニオ (ブックカフェ店主・金継ぎ師・ アートディレクター)
店内にはアートブックを中心に国内外の様々な本が並ぶ

「小難しいことを『上から目線』で話しても、伝わりません。オタクだけがわかることを伝える。僕はそっち側です」

 二〇一九年には、ボストン美術館の展覧会の解説の仕事も舞い込んだ。浮世絵、巻物を独自の視点から紹介するナビゲーターだ。わかりやすさ、物腰のやわらかさはやはり、テレビ業界で切磋琢磨してきた経験が活きている。

 米国在住の日本画家マコトフジムラと、共同で金継ぎの学校「キンツギアカデミー」をロサンゼルスに設立。金継ぎ作家としての活動を始めたナカムラは、金継ぎを紹介するために動画を作成した。その映像が動画投稿サイトで世界じゅうに広まった。じつはいま、世界じゅうで「KINTSUGI」ブームが沸き起こっている。新型コロナにより逝去したデザイナー・高田賢三氏が晩年、フランスでつくったブランドも、金継ぎをコンセプトにしていたことは有名だ。米国では金継ぎの精神を歌うロックバンドまで出現している。米国で二〇一五年に Amazon で配信されたドラマ「The Man in the High Castle(高い城の男)」のワンシーンには、精神統一のために金継ぎを行う場面まであるという。ナカムラは言う。

「ただ単に、壊れたものを修復する行為であることを超え、金継ぎには今やセラピーのイメージが加わっています」

「6次元」で月に数回開催する金継ぎのワークショップには、コロナ前には世界各国から、コロナ禍の現在も国内各地から生徒が押し寄せているという。

「五百円のマグカップの金継ぎに五千円、一万円をかける人も多い。こうなると、もう修理じゃないんですよね。自分を治したい。自分自身を修復する作業を体験している、という理解が多い気がします」

 ナカムラ自身は、金継ぎを工芸からアートへ引き上げている。その試みの一つが、北朝鮮と韓国、インドとパキスタンなど、対立関係にある国・地域の器を繫ぎ合わせる作品の創作だ。

「『呼継ぎ』をやっているうち、いつかやってみたくなったんです」

「呼継ぎ」とは、壊れた陶磁器を、パッチワークのように他の破片を用いて修復する手法だ。新たな趣を生むうつわであると同時に、破片の厚みや形がぴったり合わないとうまく接着できない、難易度の高い手法でもある。

「コンセプチュアルなものをつくりたい。金継ぎもアート作品だと思っているんです」

ナカムラクニオさん

 彼は、一つのうつわを見せてくれた。それは、日本の焼き物をすべて一つに繋いだものだった。縄文、弥生、備前、唐津、伊万里。時代を越え、津々浦々を結び、大陸文化を色濃く反映したのが日本のうつわだ。紋様は中国、ペルシャ。各地で派生した文化が、日本に結集し、花開いた。それを現代的に再構築する作品をつくりたい。いつか、メキシコと米国の国境で、ガザ地区で、金継ぎのワークショップを実施しよう。彼はそう心に決めている。

ただ「繋ぐ」ことだけをやっている

「6次元」の空間では、時代を越え、人と人とを繫いでいる。金継ぎでは壊れたうつわを繫ぎ、国同士のいさかいを乗り越えて繋いでいく。美術史の本を執筆し、過去と未来を繫ごうとしている。ナカムラは言う。

「バラバラに思われるかも知れませんが、僕としてはただ一つ。『繫ぐ』ことだけやって過ごしている」

 疫禍を機に始まったオンライン。これもまた「繫ぐ」行為だ。今後、挑戦したいことが彼にはあるという。

「オンラインラジオみたいなものをつくって、美術について発信する仕事をやってみたい。キュレーターとして、媒介として、『繫ぐ』役になりたい」

 取材の終盤、彼が見せてくれたものがある。それは、不要になった筆と、落ちている木の枝を繫げたもの。それから、拾ってきた石の一部に、金を塗ってみたもの。

「この作業だけで価値が生まれるように感じる。しかしなぜ、価値が生まれるのか。そんなことを考え続けています」

 客の来訪のない日は、時間をかけて床や椅子を磨く。「まるで古い車に乗っているような気持ちです」。目を細める彼の横の窓の向こうを、夕焼け色の快速電車が駆け抜けていった。

店内にはアートブックを中心に国内外の様々な本が並ぶ
〈写真上〉小山冨士夫の徳利を花器に。アネモネの紫が映える
〈写真下〉幼いナカムラのために母が作った茶碗。ここにも金継ぎが施されている

ナカムラクニオ
1971年、東京都目黒区生まれ。都立日比谷高校在学中から絵画の発表をはじめ、17歳で初個展。現代美術の作家としても活動し、山形ビエンナーレなどに参加。著書は『人が集まる「つなぎ場」のつくり方』(CCCメディアハウス)、『金継ぎ手帖』『古美術手帖』『チャートで読み解く美術史入門』『モチーフで読み解く美術史入門』『描いてわかる西洋絵画の教科書』(以上、玄光社)など多数。金継ぎ作家としても活動し、米国在住の日本画家マコトフジムラと共同で金継ぎの学校「キンツギアカデミー」をロサンゼルスに設立。

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(インタビュー加賀直樹 写真松田麻樹)
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