物語のつくりかた 第15回 平山ユージさん(プロフリークライマー)
僕はもともと子供の頃から登山が趣味で、クライミングはその延長線上にあるものでした。最初は筑波山や高尾山、富士山などを登っていましたが、そのうち海外のもっと高い山にチャレンジしたいと思うようになりました。すると自ずと岩登りの技術が必要になるわけです。
そこで高専時代はワンダーフォーゲル部に入部。ある日、部活の仲間と一緒に登山用品店へ出掛けた際、そのショップの店主が主宰しているクライミングスクールに誘われたのが、本格的にクライミングを始めるきっかけになりました。
場所は埼玉県の日和田山。クライミングというのは道具を使って岩壁を登るものだと思っていたのですが、この日は素手で登るフリークライミングでした。
高さ10メートル程度の岩壁を前に、岩の凹凸を見極め、自分の手と足だけを駆使して登っていく。すぐに、「これは命ひとつじゃ足りないぞ……」と、想像以上に危険と隣り合わせであることがわかりました。しかしそんな恐怖心よりも、岩がすごく多彩な表情を持っていることに僕は大きな感銘を受けました。もともと自然が大好きだったこともあり、こんな風景を世界中で見られたらどんなに素晴らしいだろうとワクワクしたのを覚えています。これが15歳の時のことでした。
17歳で単身アメリカへ
一気にクライミングの虜になった僕ですが、当時はまだまだマイナー競技で、これを職業にできるとは夢にも思っていませんでした。学校が航空高専だったので、将来はエンジニアになるのだろうなと、漠然と想像していたくらいです。
それでも、海外の岩山を登ってみたいという思いはどんどん強くなり、トレーニングの傍ら、渡航費用を貯めるために清掃会社でアルバイトを始めました。
貯めた60万円を手に、休学してアメリカへ向かったのは、17歳の時のこと。当時はアメリカこそが本場であり、クライミングレベルも最高峰だと思っていました。
実際、アメリカの山はどれも刺激的で、7カ月の滞在期間には本当に多くのことを学びました。しかし、現地でトレーニングを積むうちに、どうやらヨーロッパのクライマーはさらにレベルが高いらしいということがわかってきます。世界一のクライマーになるためには、今度はヨーロッパへ行かなければならないと、真剣に考えるようになりました。
そこでアメリカから戻った翌年、すぐまたヨーロッパへと旅立つことになるのですが、そこで感じたのは周囲よりも自分自身のレベルでした。ヨーロッパは確かに実力者揃いですが、自分が決して引けを取っていないことを実感できたのです。さらに出場した大会で好成績を収めたことにより、現地メーカーからスポンサードの申し出があるなど、クライミングで食べていく道が初めて現実的に考えられるようにもなりました。
その結果、それまで以上にクライミングのことが頭から離れなくなり、ついには「せめて2年だけでも本気でプロを目指して頑張ってみよう」と、僕は高専を中退したのでした。1998年のワールドカップでは、日本人として初めて総合優勝という結果を出すことができたのも、そうした決意の賜物でしょう。
しかし、今でも忘れられないのはむしろその翌年、99年に出場した世界選手権です。絶対の自信を持って臨んだこの大会、どこか心に余裕を持ちすぎていたのか、僕は登りながら関係者や観衆の反応で優勝を確信。もう最後まで登らなくても大丈夫だろうと、途中で降りてしまいました。ところが、これが大きな勘違い。スコアシートを見れば、僅差で優勝を逃してしまったのです。完全に過信による失態でした。みすみす勝ちを逃したことが悔しく、自分に対して大いに腹を立てた僕は、「今後は出る大会すべて優勝してやる!」と、いっそう厳しいトレーニングに励むようになりました。
その結果、翌年は5つの大会で優勝。その年のワールドカップのタイトルも獲得し、今日に繋がる満足のいく1年になりました。
自然の山々への興味を育みたい
今でも、岩壁を前にした時に、恐怖心が湧かないわけではありません。ただし、恐怖を感じるということは、そのコースが自分の能力を超えている証し。そこでいかに適切な次の一手を考えられるかが、クライマーにとって重要なポイントになります。こうした感覚を養うには、経験を積むしかありません。クライミングというのは登るたびにフィードバック(反省、課題)が生まれるもの。だから、とにかく場数を踏み、フィードバックを重ねることで実力は培われていきます。
もし、目の前の岩壁に恐怖を感じるなら、なぜ怖いのか、その理由を分析しながら、実際にそこに指をかけ、足を置く自分の姿をシミュレーションします。そうして怖さの要素を排除していくことで、やがて思い切って登っていくタイミングが訪れることがあります。
こうした経験を積んでいくと、登っている最中に体力的な限界がやってきても、体から無言の要求で、自然にルートが掴めることもあります。僕は今日まで、ずっとこうしたことをくり返してきました。
そんな僕も今年で50歳を迎えました。当然、クライマーとしての能力的なピークはとっくに過ぎているでしょう。
しかし、40歳でも50歳でも、年齢に応じた楽しみ方があるのがクライミングの世界。僕の場合、40歳以降は現役として活動する一方で、ジム経営など事業としてこの分野に関わっています。自然の岩を登る機会は、以前と比べて格段に減ってしまいましたが、それでも今なお応援、支援してくれる人が大勢いるのは、50歳を迎えた僕のこの先に、何らかの期待を持っていただいているからでしょう。
思えば、僕がクライミングを始めた時、国際大会に参加するアジア選手は皆無でした。いわば誰もいないところに1人で飛び込み、少しずつ切り開いていく過程でコミュニティが生まれ、それが今に繋がっています。たとえば現在はアフリカの選手はほとんど存在しませんが、これもきっかけ次第でコミュニティが生まれれば、将来的に優れた選手が続々と登場するかもしれません。自分のキャリアを振り返ってみれば、まずコミュニティを育てることが、競技の繁栄に繋がるのは間違いありません。
実際、日本では今クライミング人口が急速に増加しています。フィットネス感覚で取り組む人々を含めれば、今後は低年齢化しながらさらに増えていくことになるでしょう。そうした愛好家も含め、より多くの人が末永くクライミングを楽しめる環境を整えることが、これからの自分に与えられた役割だと考えています。
僕のキャリアをひとつの物語に例えた場合、クライマックスに相当するのは"さらに多くの人々に自然の魅力を体感してもらう"ことです。たまたま誘われてクライミングに興じた人が、やがて自然の山に興味を持つこともあるでしょう。それは僕ら人間の遺伝子に組み込まれた、本能のようなもの。その興味を大切に育み、さらに多くの人々がクライミングを楽しむようになれば、一生この世界に関わって食べていけるクライマーも増えるでしょう。僕の理想はそこにあります。
ただし今後、自然の岩場に挑戦する人が増えていけば、きっと新たな問題がたくさん生じるでしょう。自然保護やルールの啓蒙など、エデュケーションの部分で僕らがやらなければならないことは山積しています。少なくとも60歳までの向こう10年は、今まで以上に頑張らなければいけませんね。
平山ユージ(ひらやま・ゆーじ)
1969年生まれ。東京都出身。15歳からクライミングを始め、17歳で渡米。19歳で渡欧、マルセイユを拠点に数々の国際クライミングコンペに出場。89年のフランケンユーラカップ優勝をはじめ上位入賞の成績を残す。98年、日本人初のワールドカップ総合優勝。また、2000年に二度目の総合優勝を果たす。近年ではテレビ解説等も務める傍ら、日本山岳・スポーツクライミング協会副会長として競技普及の活動も行う。
Q&A
1.夜型? 朝型?
1時頃に寝て、8時頃起きるので、どちらかというと夜型ですね。睡眠時間はちゃんと確保するようにしています。
2.お酒は飲みますか?
飲んじゃいますね。とくに仲間と一緒にいる時は、わりとたくさん飲みます。
3.犬派? 猫派?
犬派です。現在も柴犬を2匹飼っています。もともと自然の中で生き物と触れ合う機会が多いので、動物は全般的に好きです。
4.仕事上の必需品は?
筋膜リリースのためのボールと、インナーマッスルを鍛えるセラバンドを必ず持ち歩いています。
5.オフの日の過ごし方は?
あまり取れていないのですが、少し時間が空くと、自宅の庭につくった畑を耕しています。
6.影響を受けた映画は?
やはり自分がクライマーだからなのか、クライミングをテーマにしたドキュメンタリー作品、『The Dawn Wall』が良かったですね。自分たちの生き方そのものが描かれている印象で、胸に迫るものがありました。
7.影響を受けた本は?
室伏広治さんの父、重信さんが書いた『その瞬間にかける』。競技への思いや距離感が非常に参考になりました。
8.もし今この仕事をしていなかったら、どんな仕事をしていたと思いますか?
何をやっても、1番になりたいという気持ちは持っていたと思います。もしエンジニアになっていたとしても、その道でのトップを目指して頑張っていたのではないでしょうか。
INFORMATION
平山ユージプロデュースの
ボルダリングジム3号店がオープン!
Boulder Park Base Camp
埼玉県飯能市緑町3-2
042-978-9450
平日 12:30〜22:30
土曜 10:00〜21:00
日・祝 10:00〜20:00
「Feel the nature」をコンセプトに、
今年2月にオープン。
広々としたフロアに
多彩なバリエーションの設備を有する。