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市川拓司さん『こんなにも優しい、世界の終わりかた』視点を変えれば、最小限の労力で最大限の幸福感を見つけることはできる、という思いをこめました。
市川拓司さん
『いま会いにゆきます』『恋愛寫眞 もうひとつの物語』『そのときは彼によろしく』などのベストセラーで知られる作家、市川拓司さん。甘酸っぱさと切なさをたっぷり詰め込んだ作風で多くの人の心をつかんできた彼が、刊行予定もないままに夢中で書いたという小説がある。それが『こんなにも優しい、世界の終わりかた』。終末の世界を舞台にしながらも、美しさと優しさ、そして愛に満ちた作品だ。
市川拓司(いちかわ・たくじ)1962年、東京生まれ。 2002年『Separation』(アルファポリス)でデビュー。03年『いま、会いにゆきます』を発表。同作は100万部を超える大ベストセラーに。他の小説作品に、『恋愛寫眞 もうひとつの物語』『そのときは彼によろしく』『弘海 息子が海に還る朝』『世界中が雨だったら』『ぼくの手はきみのために』『吸涙鬼』『ねえ、委員長』などがある。

青い光に満ちた世界の最期

 地上に降り注ぐ青い光。それを浴びた町では生き物はすべて動きを止めてしまう。そう、世界は今、静かに終末を迎えている。電話の向こうの怯えた声を聞いて〈ぼく〉は旅立つことを決意する。青い光を避けながら、ずっと思いを寄せていた大切な雪乃に会うために。市川拓司さんの最新長編『こんなにも優しい、世界の終わりかた』は終末の世界を透明感あふれる文章のなかで描き出す。

「自分の中にずっとある終末観が表れていると思います。それは顕在意識にのぼらなくても誰もがどこかで感じている、世界中に漂っている終末観でもありますね。震災があったことや世界情勢の変化も大きいですが、ここ数年で終末に向けて追い詰められているような感覚が強まった気がします。実際の世界で何の救いも見出せないなら、フィクションの世界に見出そう、というのが書きはじめた大きな動機ですね」

 それは人々の心を救うためというよりも、自分自身を救うための行為だった。

「自分の中にある不安やいいようのない圧迫感と折り合いをつけるために、つまりは自分のために書かずにはいられなかった。書くことで救われる理由はふたつあります。ひとつは脱抑制。自分の不安を吐き出すことで抑圧された感覚を開放する、デトックスのようなものですね。もうひとつは、かくのごとくあれかし、という救済を形にできること。ディストピアを書いたって救われない。僕の場合は世界に終わってほしくないので、留保という形を取ることが多いですね。永劫回帰もそう。実はこれまでにもそのことを多く書いてきました。『そのときは彼によろしく』は永遠に夢を見続ける話だし、『黄昏の谷』や『夜の燕』にも今回の小説の萌芽が見えると思います」

 これまでにも直接的に終末の世界を書いたことはあった。

「一度『桜咲く、桜舞う』という、洪水伝説の世界をモチーフにしたものを連載したんですが未完のままなんです。それで、どこかで刊行する予定もないまま、もう一度書こうと思って取り掛かったのが今回の小説になります」

 実は子供の頃からよく終末の夢を見ていたという市川さん。見る夢は二種類あったそうだ。

「ひとつは『桜〜』で書いたような洪水によってすべてが沈んでいくという夢。もうひとつが、空から何かが雨のように降ってくる夢。光であったり火球であったり礫であったりと見るたびに違うんですが、今回は光という形で書いています。光があたると時間が止まる=凍るという考えは最初からありました。色は死や静寂のイメージがある青しかありえなかった」

 その光によって世界が終わりに向かうなか、人々は死を恐れるよりも、嘆くよりも、真っ先に大切な誰かに思いをはせる。さまざまな形で描かれる愛の姿が美しく、そして哀しい。

「やはり書いている間は、愛や優しさや思いやる心といった美しいものに浸っていたかった。そうすると書いている間は幸せでいられるという、自己中心的な動機ですね。憎しみや復讐を書いても自分のためにはなりませんから」

著者が投影された登場人物

 主人公の〈ぼく〉=優は、十四歳の時に出会った少女雪乃のことをずっと思っている。互いに惹かれながらもそれを確認することなく、大人になった二人は今、離れた町で暮らしている。そして世界が終わる前に、優は彼女に会いにいくことを決めたのだ。道中で出会う瑞木さんもまた、かつて悲しませてしまった元恋人のもとへ向かっている。二人はともに北へと向かうなか、さまざまな人々と出会っていく。回想も多く挿入され、雪乃とのこれまではもちろん、友人洋幸とのエピソード、優の両親のなれ初めなども描かれて、物語は広がりをみせる。

「優は自分の中のすごくナイーヴな部分と、いちばん子供っぽい部分を投影していますね。彼のおぼつかなさ、言葉の子供っぽいところは自分の未成熟な部分を象徴している」

 雪乃が望んでいるのは明らかなのに手を出さない優はかなりの奥手でもあるが、

「こんなのは甘いですよ、本当の僕はもっと奥手ですから(笑)。僕の一族には奥手で恋愛経験もない人が多いんです。ただ、今の子供たちの恋愛に対する積極性のなさを見ていると、チャンネルは違うけれど現象だけ見れば僕らと同じだなと思う。だから読者も分かってくれると思うんです」

 また、飄々とした瑞木に関しては、

「大好きなキャラクターです。これはもうひとりの自分。ロードノベルには道連れが必要ということもありますが、たぶん、瑞木が現れた瞬間に、僕の自我が優と瑞木に分かれたんだと思う。ボケとツッコミみたいなものですね(笑)。彼のような多動的でラフでおっちょこちょいな面も確かに自分の中にある。それで幼い優とのバランスをとっているんです」

 また、息子さんからは優の友人、洋幸がトリックスターではないかと指摘されたという。神話的物語のなかで話を掻き回す存在のことだが、

「もともとトリックスターって男であり女であり賢者であり愚か者であり、と両義性を持っていますよね。神様と人間のハーフのような存在。確かに洋幸は主人公に要所要所で重要なことを言っている。そう思うと洋幸は神様だったんだと思えますね」

潜在意識が生み出す世界

 優の両親のエピソードもつづられていくが、ここで母親が陸上部のハードルの選手だったこと、父親がぱっとしない少年だったことなど、過去作品と似たシチュエーションも。これはどの人物にも著者が投影されているから。また、作中に登場する万華鏡やボールが転がる装置などは、以前から自作しているもの。

「創意工夫が好きなんです。ものを作っている時がいちばん落ち着くから。万華鏡を作ってはみなさんに配っていますよ。ネットにも書きましたが今、〈世界の優しさの総和を少しでもふやそう〉プロジェクトをたったひとりで立ち上げているんです。今はまがい物がすごく多くなっていて、きれいじゃないものをきれいだと言って価値をつける人も多い。でも高いお金をかけなくても本当にきれいなものが身近にあるということを伝えたい。最小限の労力で最大限の幸福感を見つけることはできるんです。今回の主人公はそれに気づいていない。だからこの小説はビルドゥングスロマンにもなっているわけです。例えば主人公のお父さんは一回も旅に出たことはないけれども、幸せとはどういうことか気づいている。ちょっと視点を変えれば幸せは得られる、という思いをそこにこめました」

 こうした設定、要素は書き進めていくうちに自然と盛り込まれていったもの。というのも、本作はプロットを作らず、当初から頭にあったラストシーンへ向けて自由に書き進め、結末まで書いてから整えたものだからだ。

「自分の場合、自動書記のようなものなので最初に書く時は時系列も伏線も混沌としてしまう。なのでもう一度距離をおいて見直す必要があるんです。要は潜在意識が書かせたものを顕在意識によって常識の範疇に収めていく作業。そうすると物語が多層的になるんですよ。潜在意識で書くものは神話的、宗教的で、いろんなものを象徴しているように読める。何回も読み直すたびに、発見することがあると思います」

 人によってさまざまな深読みもできるという。例えば青い光について。

「僕は全然考えていなかったのだけれども、編集担当者はこれは放射能だと思ったそうです。言われてみれば確かにそう読める。実際僕は原発事故のニュースに相当衝撃を受けたので、潜在意識にはそれがあったのかもしれません。僕自身は、青い光からブルーレイを連想していました(笑)。最新の物理のホログラフィック理論では、宇宙の最果てに二次元の膜があって、そこにマトリックスが書かれている。それが三次元に投影されたのがこの世界だといわれているそうです。天上の情報が地上に焼き付けられているということは、つまりそれってレーザーだよな、ということを考えていたんです」

 他にも何かを象徴するような場面、展開はたくさんある。自分はそこから何を喚起されるのか、少し意識しながら読み進めてみるのもいい。

 「潜在意識で書いている時は脳が興奮していて、前頭葉ではなく古い脳が出張ってくるんでしょうね。潜在意識とは結局、言語化される前の思考回路ということですよね。そこは未分化の世界。生と死、我と彼、男と女、自分と環境、夢と現の境界線がない。動物もそういう感覚で世界をとらえていると思う。つまりは原始宗教のようなものになっていく」

変容していく終末観

 終末というと集団パニックや阿鼻叫喚めいた現象も想像できるが、本作の人々は非常に穏やかなように思える。静かに死を受け入れる人々を描くのは、最近の傾向なのか。

「終末というものが物語ではなく、リアルなものに変わってきたんでしょうね。鉦と太鼓ががんがん打ち鳴らされて人々が逃げまどう終末はリアルじゃない。例えばスティーヴ・カレルとキーラ・ナイトレイが出ていた映画『エンド・オブ・ザ・ワールド』はもうすぐ小惑星がぶつかる世界を舞台にしたロマンティックな作品。ユアン・マクレガーの『パーフェクト・センス』は五感を失う感染症が全世界を襲う話だけれども、最終的に描かれるのは愛。ラース・フォン・トリアーの『メランコリア』は、どんな人にもあの凄みは伝わると思うけれど、分かる人には究極的に分かる映画。鬱傾向のある人なら・分かるよ!・と言うと思いますね」

 これも惑星が衝突する世界が舞台。心の病を抱えた妹と姉家族が、屋敷で終末までの日々を送る。姉は怯え、妹は終末が近づくとともにむしろ心の安定を取り戻す。実はいちばん怖がっているのは平気なふりをしていた姉の夫。

「僕はあの姉の夫のタイプです(笑)。あの映画は監督が強迫観念で作っているような映画。細かいエピソードも何も外していない。こうした、ディザスター・パニックとは違う終末の描き方は『ザ・ロード』あたりから増えてきたように思います」

 また、欧米のキリスト教的終末観と東洋的なそれは違う、とも。

「キリスト教の世界では結局、善と悪に分かれて描かれる。東洋はもっと包括的。すべてが許されてすべてが一緒になっていく。今回の主人公である優も、幸せはすべて生まれた時から手の内にあったという、現状肯定に行きつくんです。今のままで世界がこんなに美しいならいいじゃないか、と。善は悪を裁いたという浄化の仕方ではなく、すべての境界が消えてすべてが赦されていくところに、究極の幸福感があるんです」

 最終的に優は雪乃と会えるのか。彼らが辿りつく境地とはどこか。本作を読んで泣いたという声もたくさん届いているそうだが、でもそれは悲しい、可哀そうといった類の涙ではない。

「いわば歓喜の涙ですよね。最近泣けるというとネガティブな見方をされる。でも、ノスタルジーやセンチメンタリズムに対して冷ややかな人って、真実のそれらを知らないんですよ。情動を喚起させないと心のいちばん深いところの蓋は開かない。でも蓋が開いた時、人はある種の宗教的な境地に至る。だから僕は読む人の情動をかき乱したいんです。この小説も、ある程度感受性を持っている人ならば、きっと感じとってもらえると思う」

自分の中にある世界観、終末観と何かしら呼応するものが見えてくる一冊。人によってはもちろん、読む時期やシチュエーションによっても捉え方は変わってきそうだ。

 

(文・取材/瀧井朝世)
 

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